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美川村二十年誌

五、大正・昭和時代

 大正一五年(一九二六)に、郡制が廃止されることとなった。これまで、国・県・郡の三段階にわたって、監督支配を受けていた地方自治体にとって、重石が一つ取れたわけで、これは大きなプラスであった。
 また、選挙制度については、明治時代の制限選挙(成年の戸主であって一定額以上納税をしている者という選挙権の制限)から、男子普通選挙(成年男子には平等に選挙権を与える)に進展したのは、同じく大正一五年になってからであった。
 このように、全国的に自由民権思想および制度が伸長した時代を迎えて、農村もまた地方自治体として大きな発展を遂げた。
 本村においても、道路や橋の建設・教育施設の充実・産業の振興と、驚くような大事業の数々に着手し目的を達成したのである。
 こうして昭和時代にはいり、昭和六年から軍部横暴の暗黒時代を迎え、満洲事変・支那事変・太平洋戦争としだいに戦争の泥沼の中へ埋没するに至った。そして昭和二〇年夏、国力の消耗と原子爆弾の大惨事によって、日本は無条件降伏をせざるを得なくなり、遂にこの凄惨な大戦争は、終結したのである。
 昭和二〇年八月二八日、連合軍の日本進駐が始まり、九月二日には東京湾内の米艦ミズリー号上において、降伏文書調印式が行なわれ一一月、愛媛県内にも連合軍が進駐した。そして、連合軍総司令官マッカーサーによる日本改造の事業が開始された。仕七川村長・高岡金四郎は、大政翼賛会の村支部長であったため、公職追放令にかかり、村長を辞任した。
 昭和二〇年九月一七日、敗戦の悲しみに沈む日本国民を更に苦しめるかのように、枕崎台風と呼ばれる未曾有の猛台風が襲い、本県も甚大な損害をこうむった。仕七川村においても、一六日・一七日両日の雨量は八〇〇㍉に達し、各河川の増水と流木のために岩屋橋・宮前橋・槇谷橋・仕出橋等、大小の橋のほとんどが流失してしまった。
 昭和二二年四月より仕七川新制中学校開校、戦時中の国民学校は再び小学校と改称された。
 五月三日には日本国憲法が発布された。この年は選挙の年と呼ばれ、各種の首長・議員の選挙が行なわれたが、日本の婦人が選挙権を行使した最初の選挙でもあった。
 市町村長選挙は、これまで議会識員による間接選挙であったが、この時から婦人まで含めた直接選挙になったわけである。また村長が議長を兼ねることも、新法により廃止された。新制度による初めての村長は河合邦広で、議長は佐藤計三郎であった。
 戦後、廃虚の中から立ち上がった日本経済だったが、物資の欠乏による猛烈なインフレーションが起こり、物価は一〇〇倍となり二〇〇倍となり、更に三〇〇倍となった。
 このように激しく混乱した経済界も、二五年ころから安定し、国土の復興も着々と進行するようになった。
 仕七川村における村造りの進行状況は、次のとおりである。
 1、二三年、仕七川中学校校舎建築。上浮穴高等学校仕七川分校開設・簑川道路開通。
 2、二四年、岩屋橋・中村橘架設。村内電話開設。
 3、二五年、水押久万線伊予鉄バス運行開始。仕七川中学校二期工事・仕七川第二小学校南校舎・槇谷分校校舎、それぞれ新築落成。
 4、二六年、村長・村会議員選挙。仕七川公民館落成。カゴバラ林道建設着手。
 5、二七年、仕七川村教育委員会発足、公選(無投票)により新谷善三郎・中西縫太郎・福田嘉登・高岡福一の四委員を選出。村議会より佐藤計三郎が就任。
 6、二八年、長瀬橋完工。社会教育進展し、婦人学級開設。動力消防ポンプ整備。
 7、二九年、全国的に町村合併促進協議会が開かれるようになった。仕七川第一小学校南校舎・同第二小学校運動場拡張工事完了。キジヤ台風による被害甚大、災害救助法発動。
 8、三〇年、仕七川中学校寄宿舎建築および特別教室敷地造成工事完了。三月三〇日美川村が発足。