データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

美川村二十年誌

三、仕七川村の発足

 明治二三年三月、初代村長に横田維翰、初代助役兼収入役に中西久次郎が選ばれて、いよいよ新しい仕七川村が歩み始めた。
 当時の村長の俸給は月七円、助役は年五円、収入役は月三円五〇銭であった。
 新制村会 明治二三年早々に、新制度における、第一回の村会議員選挙が行なわれ、一二人の議員が選ばれた。この時の選挙は、一級・二級の別があった(仕七川村誌)といわれるが、くわしいことはわからない。
 同年三月、仕七川村初めての村会が、開会された。この時、決められた村会の会議細則は次のとおりである。
 第一条 議員の着席は、長幼順とす。よわい相等しき者は、抽せんを以て定む。
 第二条 議事の始終の時限および伸縮は、議長の定むるところによる。
 第三条 議案または報告書は、少なくも、開会二日前、頒布するものとする。
 (四条、五条 略)
 第六条 可否を決する法は、起立、挙手、投票等議長適宜これを用ゆ。
 (七条 略)
 第八条 決議事項に違背したる議員は、会議の評決により、二円以下の過怠金を科することあるべし。
     その金額は、時々議決をもって定む。
 第一回の村会は三月二日に開かれ、前記「会議細則」のほか、「組長廃設」、「常設委員設置」等の件が審議されている。
 翌三月三日には第二回村会、議案はほとんど学校に関すること。更に翌四月には第三回村会開催、村長以下吏員の給料の決定や、役場新築の決議も行なわれている。
 役場の敷地は大字七鳥西古味五六番地に決定し、最後までその位置は動かなかったわけである。
 当時の村会の記録を見ると、いろいろおもしろいことがある。例えば、明治二五年三月六日の村会では「ヒエ」の貯蔵法について審議されている。このような細かいことまで、村会の決議を経て執行していたことがわかる。また同年の村会に、役場改築の件が審議されているが、その記録の中に、「土屋氏分五円は、役場人民たまり席の畳代とす。」という文言がある。当時は村民のことを人民と言い、待合室をたまり席と称していたことがわかる。
 明治二七年二月の村会では、役場の執務時間改正を決議している。次のとおりである。
 毎年四月二〇日より、七月一〇日に至る、午前八時より、午後四時まで。
 同七月一一日より、九月一〇日に至る、午前八時より、午後三時まで。
 九月一一日より、四月一九日に至る、午前九時より、午後五時まで。
 ただし、土曜日は平日どおり、日曜・祭日・祝日は休暇とす。
 時期によって細密に区分されておるところなど、なかなか合理的にできている。
 明治期の村営事業の中で特筆すべきものに、滝渡瀬橋の架設がある。この橋は、直瀬川が面河川に合流するやや上手にあり、交通上重要な橋である。先に、西古味・七鳥両部落の責任で架設したのであるが、明治二六年の風水害によって流失した。
 県から、復旧補助として二八〇円六銭を下付されたので、これを基本として翌二七年九月には新しい橋を竣工させたのである。ところが完工検査の翌日、台風のもたらした水害によって、再び流失してしまった。
 横田村長は同月、村会を召集し、設計を変更して架橋することを提案し、再度、架橋している。その熱意には、頭の下る思いがする。
 大正一二年四月、これまでの橋の下手の直瀬川が面河川に流れ込む地点に現在のコンクリート橋が完成してからは、修理の必要さえもない、りっぱなものとなった。
 とにかく、このような公共施設の維持建設においても、村財政が貧弱で補助金も少額であった明治時代には、非常に苦労したであろうと思われる。