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美川村二十年誌

二、戸長制度

 明治五年(一八七二)四月五日太政官布告により、藩政時代からひき続いて村役人であった庄屋・名主・年寄などの名称が廃止され、代わって公選による戸長と副長が置かれることになった。
 戸長役場は各村に置かれたのではなく、約五〇〇戸に一ヵ所の役場が置かれたのである。
 仕七川地域では東川・七鳥・仕出の三ヵ村に一ヵ所の役場を置き、
「七鳥村ほか二ヵ村戸長役場」と呼ばれて七鳥にあった。
 初めは私宅を事務所にしていたようである。
 当初、戸長は民選であった。ところが、その後、自由民権運動が激しくなったので、これを押さえるために政府は、戸長を府知事・県令による任命制とした。
 この戸長制度は、明治二二年(一八八九)四月一日、町村制が公布され、町村長が置かれるまで続いたのである。
 三村の歴代戸長は、次のとおりである。
  初代小川忠恕、二代梅木二三、三代中山盛徳、四代梅木米八、五代戒田久延、六代船田正寿、七代正岡元市、八代小倉宗衛
 戸長は、収税・戸籍・徴兵下調・地券台帳・就学勧誘等の委託事務を処理するとともに、理事者として地方税協議費等を徴収し支弁する任務を持っていた。
 明治四年(一八七一)には、①散髪制服脱刀とも自今勝手たるべきこと、②苗(みょう)宇姓の使用勝手、③種痘の実施、④徴兵令、⑤学制発布など、新しい制度が、あいつで実施された。当時、国民はその趣旨がよく理解できないために、いろいろと混乱が生じ、行政の上でもたいへん困難をしたようである。
 役場吏員の給与は明治一八年度の三村役場の予算書によると、次のとおりである。
 戸長六円、一般吏員三円ないし四円、小使二円、また宿直料は一晩につき三銭であった。