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美川村二十年誌

一、久万山騒動

 明治四年八月の久万山騒動については弘形村の部で記しておいたが、日野浦村の山内才十が先達となって事件を起したことになっており、落着後に責任者として処罰されている。「石鉄県紀」には彼が小間物商として、北坂の村々を歩いて連絡をとった事情が、自白の言葉として記されているので、仕七川村に関係ある部分だけを抜き出しておく。事件の原因は弘形村の部に述べたように明治四年の春、新政府が神社仏堂を調べ、いかがわしいものは取除くと通達したが、久万山は谷深く村々の家並も離れ、夜などの往還はみな社堂を頼みとし、病気の時は平癒祈願をしているので取除かれては困る。また藩知事は免職になって東京に帰られるというが、場合によれば百姓が割米を出してでも久万山にお迎えしたい、という事で寄り合って評議した上、出訴してお願いしょうという動きが下坂・北坂の村々にあったことを述べて、
 八月十二日頃、黒岩村へ行く途中、仕出村組頭武八郎に出合いました所、久万へ嘆願に行きたいと言うので、同人宅に行き話した中で、誰か先立の者は無いかと言うので私が先立で歎願すると申し聞かせた。その後、沢渡村の弁太、仕出村の伝次、七鳥村久之右衛門、長瀬組初三郎、竹谷組利蔵、日浦村清右衛門、大味川村勝治郎へ相談しいずれも同意した。落合う所は東川・七鳥の者は長瀬とし、村々の印として有合せの幟・鍬の柄などを持参するようにきめた。私はそれから大味川村の伊之助方へ行き十五日夕刻に東川・七鳥らの者が長瀬まで出掛けた様子なので、七鳥村氏神まで出向いたところ、多人数が集まっていた。それより思い思いに別れて有枝・黒岩の村々を催促してその夜久万町村に出そろい次第、嘆願について評定するように考えていた。東川村の彦右衛門や有枝村の某を呼寄せて、村々の揃わぬうちは騒ぎ立てぬよう取鎮め方をしてくれるよう伝えた。しぜんと私が頭取の形になり、目浦・西谷・縮川・柳井川などへ督促の手紙を書いて使に託した。知事様へ嘆願する時、他郡と混乱してはならぬと考え久万山の目印として町の紺屋に誂え幟を取揃え、浮穴郡久万山の文字を書いて法然寺に建てておいた。東川村高山組の郷筒半右衛門が嘆願するのに幟など押立てては不都合だから取除けるように言って来た。十六日十二時ごろ久万町村の高橋屋与兵衛から仕出村梅木百太郎を通して、郡役人中から屯集の者に用向きがあるから伝えたい、と申し出て来たが、まだ不参の村方があるから一同出揃った上で返答すると答えた。その後、久万町村会所詰万右衛門からも、お役人様が登山されるから何用の事も取次ぐと申して来たが前同様に答えた。また久万町村喜久屋厨太郎という者が来て、嘆願の事についていかようにも取次ぎをする、知事様登京をお止め申したいという書面もこの通り用意しておるから鎮まるようにと言ったが取合う者もなかった。大味川・畑野川が出て来ないので私が畑野川まで行くと多人数集まっており、奥分の者が来ないので待っていたといい、大味川は庄屋から説得をうけ村出を留められ遅くなったという事であった。遅くなったので今夜の事にはなるまいと共に久万町に立もどったら、もう明神村辺へ押出していると聞き、一同で明神村まで出てみたら先登の者は入野・久万町・西明神が加わり東明神蔵元に集まっていた。上黒岩村の栄蔵が引まとめてこれまで押立ててきたとの事で、いずれも竹槍・鉄砲を所持し窪野村で人々をさそい、十七日の夜明けに久谷村井手口まで来たところ、昨夜知事様の御直書が来たということを久万町役人から披露された。(下略)
その後のいきさつは弘形村の部に記した如くである。