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美川村二十年誌

一、庄屋の系譜

 天正一三年(一五八五)秀吉の四国征伐によって河野家が滅び、したがって久万大除城主大野直昌の配下の者も浪人となり、それぞれ知行所に縁者を頼って立ちのいた。いま「大除城主大野家由来」(松山市南町曾根氏所蔵)によって、仕七川村の範囲に移住した人々を拾って見ると、七鳥に梅木但馬、仕出に澗帯刀、東川大寺屋敷へ森将監、七鳥古味に沼野内膳、また鷹森城主越智帯刀の弟朱学は大川村に立ちのいたとある。梅木但馬は入野の天神森城主であったという。
 秀吉統一後は伊予国三五万石を小早川隆景がもらったが、隆景は天正一五年(一五八七)に九州名島に移り、天正一七年(一五八九)に久万山の地は戸田勝隆の支配地となった。この時代に久万山村々の庄屋に、大野家の浪人が任命されたようである。例えば東明神の船山城主船草出羽守の知行所は日野浦・沢渡・黒岩下分であったが出羽守は既に天正三年(一五七五)に病死しており、浪人となった三男新右衛門昌春は日野浦村に退居していたが、文禄三年(一五九四)に庄屋役を命ぜられている。時代は少し降るが、加藤嘉明の治世となって梅木但馬の子馬之助は慶長八年(一六〇三)久主村庄屋を命ぜられ、慶安二年(一六四九)まで勤めている。
  東川村
 東川村庄屋はこの久主村の梅木庄屋家から来ている。与右衛門という者が東川村庄屋を命ぜられて久主村から来て、東川・七鳥・仕出三ヵ村の庄屋役をつとめ寛永一六年(一六三九)に隠居した(畑野川名智氏手鑑)とある。その子伝左衛門が庄屋役をつぎ延宝五年(一六七七)まで三九年勤めて二代伝左衛門に譲り、彼は二四年勤めて元禄一二年(一六九九)に病死し、伜源太郎幼少のため、大味川庄屋市兵衛預りとなった。同一三年六月源太郎は庄屋役となり伝太夫と改名、寛保元年(一七四一)二代伝太夫に譲っている。二代伝太夫は宝暦一四年(一七六四)まで勤め、伜伝五郎に譲っている。
 「畑野川名智氏手鑑」は宝暦一四年の伝五郎就任の記事で終っているが、梅木家墓石によると(仕七川村誌)、安永元年(一七七二)二月に伝五郎が死去しているので、短命だったと見られる。この墓石は恐らく何年か後に建てられたものであろう。二月はまだ明和九年だった筈で安永と改元したのは一一月の事だったからである。「大川土居家文書」によると伝五郎の死後、明和九年四月に梅木伝左衛門が庄屋となっている。これが恐らく伝五郎の子で、推定によると僅か一〇歳だった筈である。彼が二五歳となった天明七年(一七八七)に土佐農民が東川村に逃散して来るという事件があった。土佐側の史料には東川村庄屋梅木茂十郎とあるので、はじめ茂十郎と称していたかと思われる。彼はこの事件の中にあって大いに立働いたので、落着後土佐の山内侯から白銀五枚を賜わっている。
 寛政四年(一七九二)久万山大庄屋を兼務させられた。この時に恐らく苗字を名乗ることをゆるされ、祖先以来の通称伝左衛門に冠して公然と梅木伝左衛門と称したものと思われる。寛政一二年(一八〇〇)九月に伝左衛門は大庄屋一役となったため、居村をはなれ久万町村に勤務し、東川村庄屋は忰の数之進が勤めることになった。東川村庄屋家の傑物だった伝左衛門の死は文政八年(一八二五)、六三歳であったと推定される。
 天保一三年(一八四二)に再び土佐農民の逃散がある。この時に七鳥村庄屋と共に斡旋につとめたのが東川村庄屋梅木伝左衛門とあるから、これは恐らく数之進が父の名を襲名したものであろう。しかも「仕七川村誌」によれば文政八年以後の墓石は慶応三年(一八六七)の梅木伝左衛門のものしかないというから、この数之進がこの年まで存命し、然るべき時に隠居して最後の庄屋梅木伝内に職を譲ったものであろう。「松山領里正鑑」に記された明治五年庄屋所廃止の時の当主梅木伝は、伝内を誤ったものか、或は伝内の子であったのかもしれない。