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美川村二十年誌

九、大上 鷹信(一八八六~一九七〇)

 明治一九年一月二四日、上黒岩大上音五郎の三男として生れた。兄の学資に資産の多くが使われたのと、兄弟が多かったため経済的に恵まれなかった。「親父に野菜作りを仕込まれた」ということ位が子供の頃の思い出であった。
 教員養成所を終え郡内小学校に勤務した。実直勤勉な教育者で、スパルタ式教育で、しかも一人々々の子供の将来を見通した指導者でもあった。東川・黒藤川の小学校長時代は教育後援会づくりに努力し、施設設備の拡充・理科教育の振興・体育の振興につとめた。
 昭和四年末に黒藤川尋常小学校長を最後として教育界を去り、弘形村役場に入り助役を勤め、昭和一六年に一六代村長となり二一年一一月まで太平洋戦争中の村政を担当した。国歩艱難な時代であったため、責任の地位におかれた彼の苦労は並大抵でなかったことが想像される。
 彼はその他農業会会長・農地委員会会長などの要職をつとめたが戦後の占領政策の一つである公職追放に逢い、すべての公職から離れて晴耕雨読の生活に入った。四五年一二月一日に松山市で八四歳で死去した。長男幸雄は郡内小学校を歴任し、松山市荏原小学校長を最後に退職し、松山市紅葉町に健在である。