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美川村二十年誌

七、土居 勘太郎(一八八六~一九七〇)

 明治一九年四月一二日、小田町大字寺村の宇都宮鹿太郎の三男に生れたが、生後間もなく酒造家大野直雄に引取られ養われた。松山中学を卒業し、二六歳のとき大川の旧庄屋土居通保の娘通衛の婿養子となった。誠実で茫洋とした風格、柔道六段酒豪で酔えば談論風発止まる所を知らぬ好漢であった。大正七年の秋にわずか村長在任一ヵ月で辞職した父通保のあとをついで一〇代村長となり、二期つとめ、また昭和八年一四代村長となって二期、前後四期にわたって村政を担当した。彼が最も努力したのは教育面で、児童の学力の向上と頑健な体力づくりであった。昭和一四・五年ころ弘形第二尋常高等小学校(現美川南小学校)が老朽校舎となり改築が望まれていたが、当時は国を挙げて戦力増強一辺倒の時代でこの種の建築は至難であった。彼は県の地方課や関係官庁にお百度を踏んで起債に成功し、現在地に建築のもとを作った。また上浮穴農林学校(現上浮穴高等学校)の設立には上浮穴郡町村会長として県議新谷善三郎と共に努力した。この学校の柔道部の育ての親として寒稽古には雨が降ろうが雪が降ろうが早朝から草履ばきで参加し、一日も欠かす事がなかった。
 彼の向学心は生涯を通じ止む所がなかった。六五歳で東洋大学に入学して独りで東京で自炊して卒業し、帰ってからも愛媛大学の聴講生として勉学して新時代の吸収につとめた。また八〇歳の高齢まで家庭裁判所の調停委員を勤め、高傑円満な人柄が多くの人々に尊敬されていた。四五年一二月一九日に病臥の枕元に多くの書物を並べたまま生涯を閉じた。八四歳であった。大川の家は養子寿次と茂喜夫妻がつぎ、家業に励んでいる。