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美川村二十年誌

三、藤田 百八(一八五〇~一九〇〇)

 弘形村初代村長。嘉永三年浮穴郡東方村(現松山市)丹生谷伝蔵の三男に生まれ、明治一六年大川村藤田万次郎の娘タマヨの婿養子となる。温厚で頭脳明敏な働き者の上、生来の世話ずきであった。山内門十郎に認められて戸長役場の書記となり、明治二三年村長となった。当時の弘形村にはさしたる産業もなくて小作と日雇労働者が多く、不就学児も多かった。彼は村民にみつまた栽培を奨励した。当時みつまたを蒸すにおいは人畜に客があるときらう者が多かったので、自分の馬小屋の隣りで蒸して見せ無害であることを示した。また植林に力を入れ、自ら部落林・村有林の植林作業に当った。教育についても熱心で村内各学校を巡回して職員の労をねぎらい、不就学児の家庭を廻って教育の必要を説いた。役場の帰りには袂に菓子を入れておき、家の手伝いをし、本を読んでいる予供に与えてはげました。村民のよい相談相手になることを心掛け、牛馬の売買まで相談をうけた。財産をふやすには村長に相談せよ、とまで言われた。明治三三年、村長三期のなかばで惜しまれつつ死去した。五〇歳。