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美川村二十年誌

二、山内 門十郎(一八五〇~一九〇三)

 嘉永三年に有枝村西屋敷で生れた。父を寿一郎という。文久元年一二歳で杣野村庄屋小倉孫右衛門の養子となり、同三年庄屋見習となる。幕末の風雲急を告げる時世だったので柔術・剣術・弓道・砲術を学び、かたわら漢学・歴史に精魂を傾けた。慶応四年鳥羽伏見の戦で藩主が朝敵として常信寺に謹慎し、土佐兵が進駐して来たとき、久万山村村庄屋に呼びかけ藩主赦免を土佐藩に歎願した。明治四年久万山騒動が起ると鎮撫につとめ、杣野村民を護るため久米村まで行き官兵に暴動でないことを陳弁し、ことなきを得た。
 その後山内の家兄が負債に苦しんだので小倉家を離籍して有枝村に復帰し、組頭・戸長・郡会議員等をつとめ、明治七年佐賀の乱で江藤新平が高知に逃れる途中、一時かくまったことがあるという。
 明治二三年の町村制実施で弘形村仮村長となったが県議会議員に当選したので、村長を藤田百八に譲った。当時県議会内部には久万山人を蔑視する傾向があり、彼の発言を取上げて海南新聞が「久万一揆当年の隊長、其硬相変らずと言ふべし」と書いた。主謀者山内才十と彼が混同されたのである。彼は早速抗議して同紙に謝罪文を掲載させ、長文の久万山騒動の真相を発表している。久万銀行の前身久万山融通会社監査役をはじめ、郷土の多くの公共事業に関与し、明治三六年、県議会議員任期なかばで五三歳で逝去した。