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美川村二十年誌

一、天徳寺 蔵山(一七一二~一七八八)

 今から約二〇〇年前の明和・安永のころ書家として有名であった蔵山は、松山市山越の天徳寺一一世の住職であった。彼の父は船草昌由(彦兵衛)と言い、日野浦村の庄屋家に生れ七鳥村・柳井川村の庄屋を兼ねたこともある。彼は彦兵衛の三子で幼名を弥九郎と言ったが、船草家の菩提寺が光明寺であり、これが天徳寺の末寺であった関係から、九歳のとき天徳寺に入り霊叟和尚の弟子となった。延享二年(一七四五)住職となったが、書道にすぐれ行書・草書をよくした。松山藩主八代定静に手本を書き、書家としての名声が近国にひろまったため広島の頼春水(山陽の父)も入門して来た。七一歳で隠居し天徳寺の吸江庵に住し、天明八年七七歳で死去した。正岡子規も「わが藩の円光寺明月と天徳寺蔵山は天下の名筆である」と、その書をほめている。