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美川村二十年誌

一、堂山大権現

 狼ヶ城の麓に「堂山さん」と呼ばれている権現さんがあります。別の名を御山大権現ともいっています。承応三年(一六五四)に建立されたもので、水の神・五穀の神として信仰され、ひでりが続けば雨乞いを、雨が降り続けば日和乞いを、部落民総出で堂山大権現に祈り続けたものです。
 寛永三年(一二八六)大川嶺に一一月の初めから雪が降り出し、一月、二月は毎日のように雪が降り、その深さ一丈(三・三㍍)にもなり、四月になっても堂山川・木地川の水は、ぬるみませんでした。それで稲のもみを蒔くことができず、六月になってようやく稲を蒔いたが、その年の収穫は皆無の状態でした。
 しかし、城下からの年貢のさいそくは厳しく、年貢が納まらねば城下に来て働けといいます。働きに行くにも金も米もないので行くこともできません。困り果てた農民達は城下に出て、殿様に直訴することになりました。
 農民代表一〇名が城下に出て、殿様が参勤交代で帰城するとこを待ちうけて直訴しましたが、直訴は認められず、牢に入れられ打ち首になることに決まりました。この農民を犬死させてはならない、何とかいい方法はないものかと庄屋に相談して、水の神、百姓の神の堂山大権現様に救済のお祈りをしようということになりました。近在の庄屋達もこれに参加して三日三晩祈願を続けたのです。すると明日打ち首となる前夜、殿様の枕もとに堂山大権現が現われ、直訴した農民の首を打ってはならない、直ちに村に帰って農業に精を出すように申し渡せ、さもなければ、松山藩は、ききんが来て世情が乱れるであろう、それだけではない。幕府より藩とりつぶしの達しがあるであろう、というお告げがありました。おびえた殿様は、翌朝いそいで農民の直訴を認め、堂山大権現への献上物を託して村に帰らせました。その後村人達は、堂山を百姓の神とあがめ毎年五月二八日にお祭りをして、その年の五穀豊穣を祈るようになりました。