データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

美川村二十年誌

第一節 警 察

 明治維新後、国内の治安維持は内務省があたることになり各府県に警察係を置くことが指令された。
 本郡では明治六年二月一〇日、現在の久万町に久万警察署(当時、取締番人)が発足した。本郡は地域が広く取締りにも不便なため、久万町村に本屯所が置かれ、七鳥村に第一支屯所、柳井川村に第二支屯所が置かれた。
 明治八年四月に取締番人が羅卒と改称され、同年一〇月に巡査と呼ばれるようになった。制服制帽を着用することになって名実ともに警察官ができあがった。
 その後、警察出張所が警察署に昇格し同時に屯所の統廃合も行なわれて、久万屯所下の二つの支屯所が廃止され、明治一〇年二月に松山警察署久万分署と、本村に日野浦分署が新たに誕生した。
 明治一二年一一月二〇日(警第二二号)に分署は規模によって一等・二等の階級をもって称することが布達され、久万分署は一等、本村の日野浦分署は二等となった。
 翌年には一・二等の呼称が廃止され、久万分署はそのまま残ったが、日野浦分署は交番所となって久万分署の管轄下に置かれ、久万分署の第一号の駐在所となった。
 明治一九年一一月一六日、久万分署は久万警察署として独立し、上浮穴郡一円の駐在所を管轄するようになり、日野浦駐在所もその管轄下にはいった。明治二二年の町村制実施にともない新村名弘形をとり弘形村駐在所と改称された。
 従来、中黒岩に民家を借りていた駐在所も村費四二〇円で大正二年七月二八日に上黒岩に新築移転し昭和四六年一月二〇日現在地に移転するまで業務が行なわれた。
 警察官としては治安の維持・消防・衛生が主な任務であった。木村においては比較的殺伐な事件は少なかったが、衛生思想は低く、その普及徹底には苦労が多かった。明治二七年八月には赤痢患者が出た。駐在巡査岩崎清吉は予防消毒の事務に従事し、日夜寝食を忘れその職務に務めたが、不幸にも同病に感染し殉職された。現在も久万警察署内に額を掲げ、同士の死を悼んでいる。