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美川村二十年誌

一、弘形中学校

 昭和二二年三月三一日、教育基本法と並んで六・三・三制と九年の義務教育を定めた学校教育法が成立し、四月一日より新学制による学校が発足することになり、同日弘形中学校が創設された。四月一五日弘形村立弘形青年学校を仮校舎として開校式及び入学式を行ない、四月一八日より授業を開始した。
 仮校舎で全生徒を収容することができず、弘形第一小学校・弘形第二小学校に分教場を設けて授業を行なったが、六月三〇日に仮校舎が整備されたので両小学校の分教場を閉鎖した。
 同年八月三〇日、上黒岩字蕨打を新校舎建設予定地に決定し、二四年一〇月二四日第一期工事として東校舎・西校舎の二棟と便所二棟が落成し、一一月一五日落成式を行ない、新校舎に移転授業を開始した。また二五年九月には第二期工事として本館が落成した。
 このように述べて行くと、時の流れにしたがって苦もなく中学校舎が出来たようであるが、村のその局に当る人々の苦労は並たいていではなかった。新制中学校建築工事について、当時の村長土居通栄は次のように記している。
 昭和二二年に学制改革が行われ六三三制が実施されることになった。弘形村では久主下にあった弘形尋常高等小学校の校舎を昭和一一年から青年学校に使用していたので、取りあえずこの校舎を新制中学校に充てたが、校舎は老朽荒廃している上に狭隘でようやく一年は過ぎたが二年目には生徒増加で収容不可能となり、物資欠乏の最悪の時期ながら新築せざるを得なくなった。
 新築にしても一村に一校説、二校説でその意見調整には時間を要した。距離からくる生徒の過労ということ、小学校の延長ではない完全施設々備を持つ校舎の建築は一校とすべきだと甲論乙駁、意見は対立して村長議員全員辞表提出、しかし正式受理はせず預りとし、調定者をきめて県の教育委員会に出頭して中学教育のあり方について充分に意見をただし決断することにした。村長と二校説の代表三名で委員会を訪れ、子弟のために完全な教育を望まれるなら一校を適正と考えると懇切に訓され、帰村後二校説の人々にその旨報告して、大風一過、和気靄々のうちに全村一致団結して一校建築に努力することになった。
 或る地方ではこの物資欠乏の悪条件の中で中学新築第一号を競う村もあったが、弘形村は財源の問題ではなく、資材の面で苦しんだ。釘がない、セメントがない、瓦がない、ガラスがない。少量物統令によりチケット配給で制限され、大規模建築は殆ど不可能と言う状況であった。建築申請書提出許可を得て、数度県庁に出張し建築資材のチケット交付を願い獲得。村民の配給チケットを借用して松山市内各商店と交渉して粘り強く現物化に努力した。資材を確保をしないと請負者がないのであった。不充分ながら根廻しが整ったので、臨時村議会を召集、詳細実情を説明提案をして、村民に協力を依頼する事に申し合せた。国・県の助成金、村費・木材・労力は村民の奉仕を願う事になり、直ちに村内部落長、組長、村内各種団体幹部の合同協議会を開催して協力方を懇請して協賛を得た。直ちに各役員を選任し、木材の割当、係員を選出、労務出夫の日割まで協定し、即時着工とまで申し合せた。
 が、今回供出の木材は随分大量で、労務にしても、扶助家庭は除外してあるし、監督者の仕事の状況により、順次五〇人或は三〇人と出夫するので複雑である。村民は待期の姿勢ではあるが、病気其他余儀ない支障も起る。種々のトラブルもある。しかし此の頃、人心がようやく戦前のように素朴・純真・誠実・勤勉に立ちもどっており、中には競争して働いて居る者があって、他の激励にもなり、有難く感激をした。敷地・運動場等土木工事の総監督は、業者鈴木弁吉氏が献身的に奉仕し、労務は村民の提供、校地買収にも各地主は公共性を認識して協力的で、即時に決定し、着工が出来たものであった。
 其の他村民はセメント一袋の切符を学校のために譲ってくれ、ガラスも同様、あちらから三枚、こちらから五枚とあつめて南北二棟の校舎が竣工したのであった。
 木材も大量で容易ではなかったが、各部落長・組長の格別の骨折りで、各組協同作業で切り出し、国道まで搬出、国道よりは日野浦の平岡製材所、上黒岩の安宅製材所へ農協のトラックが運搬した。製品は御三戸まで同様トラックで運搬御三戸より校地までは特殊材以外はほとんど職員生徒が運搬して下さったものであった。窓わく材等の特別材は官林の払下げをうけた。
 屋根も瓦が生産されていないため、杉皮で葺いたのであった。基礎工事も出来ないので、村民から集めたチケットでやっとかづら石を敷いて土台をすえた程度の工事である。一村一校に纒ったのも村民の深い教育への理解と協力によるの他ないと感謝した。現在から見れば粗末きわまる建築物であるが、その当時の技術と、物資の欠乏と、戦後財政力の貧弱な時、この建築の出来たのは村民の真心の結晶であった。
 予期していた通り、一年有余で工場が活発に生産活動をはじめ、ガラスも、釘も、セメントも切符ではあるが大量に供給されるようになり、久しい曇天が日本晴の空を仰ぐ感じになった。木皮葺校舎は、所々雨もりがするし、職員室・特別室渡り廊下が不足するため、翌年に第二期工事を継続着手する事に構想を練る事にした。
 第二期工事では調理室・裁縫室・増築本館を整備、運動場の拡張、校舎の屋根を全部セメント瓦に取替え、教員住宅四戸を建て増した。
 今回は全部村財源で施行し村民はあまり知らぬ間に完了した。竣工の際、中学校の運動会を見に集った父兄が驚いて、増築屋根のふき替えを望んで居た。かくも敏速に物資が出来ようとは予想外であった。しかしセメントにしてもチケット制であるが、資材持ちで請負業者に発注が可能になった。国道から校舎までの瓦運搬作業は中学校の体育工作の教課時間に奉仕を願った。
 このような村民全体の協力による尨大な木材供出や勤労奉仕で、御三戸の景勝地を見おろす緑に包まれた理想的な環境に教育の殿堂が設立され、有難く思っている。
 三〇年三月三〇日、町村合併によって弘形中学校は美川村立中央中学校と改名を改めた。

弘形中学校学級編成沿革

弘形中学校学級編成沿革