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美川村二十年誌

六、青年学校

 文部省は実業補習学校と青年訓練所を統合した「青年学校令」を昭和一〇年四月一日に公布した。本村に於ても、弘形農業補習学校を廃止し、弘形青年学校を久主ノ下に設置した。
 この青年学校は、男女青年の心身を鍛練し徳性を涵養するとともに、職業及び実際生活に必要な知識・技能を授けるのを目的としたもので、普通科(予科)、本科、研究科に分けられていた。
 普通科は小学校尋常科卒業者が入学し二年の課程、本科は普通科修了者及び小学校高等科二年卒業者が入学し、男子五年・女子三年の課程とした。研究科は本科修了者を入学させていた。
 教科は修身公民科・普通学科・職業科・体操科であり、本科・研究科には教練科があった。また女子は教練科のかわりに家事家庭科があった。  
 授業は季節制で、農繁期を除いて年二八週、週四日(昼二日各六時間、夜二日各二時間)の授業がなされていた。
 昭和一四年四月には青年学校が義務教育となり、男子生徒は軍人に準じた服装となり、軍事訓練が重視され、軍隊の予備化が濃厚となってきた。
 昭和一六年には夜間制を改めて昼間制となり、専任の青年学校教諭が置かれた。第二次世界大戦が苛烈になると、徴兵検査を待たずして志願する者、軍需工場に働きに行く者、強制徴用される者などが続出し、女子青年学校の観があった。この女子青年学校生も松根油採集・木炭運搬などの勤労動員に狩り出されていた。
 昭和二二年、学制改革により弘形青年学校も廃校となり弘形中学校に引継がれた。中学校が蕨打に新築移転することになり、一部校舎は弘形第一小学校の職員住宅として改築移転された。残りの校舎は上浮穴高等学校御三戸分校が使用していたが、昭和三三年これも廃校となり、現在は道路改修により埋立てられて村営の久主ノ下住宅となっている。