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美川村二十年誌

三、日清・日露戦争

 明治二七年(一八九四)にはまだ重信川に橋がなかった。日清戦争に出征する高知の朝倉連隊は、ここに橋がないので資材を積んで来た車を対岸に渡すのに大変苦労したという。この日清戦争で松山連隊は三一名の戦死者と一三二名の戦傷者を出しているが、本村にも一名の戦歿者があった。
 明治三七・八年(一九〇四ー五)の日露戦争では本村から八名の戦歿者を出した。当時の出征の模様について、中黒岩の城山鉄蔵が高知の朝倉連隊からこの道を通って、三津浜に向ったようすを、沢渡の篠崎雅吉の手記、「系譜の足跡」から引用してみたい。
 明治三七年五月中旬のことである。おりしも高知市外朝倉の兵舎を出発した高知四四連隊が、愛媛県の三津浜港から船出するため戦時装備で軍旗を捧じ、いまの国道三三号線を行軍してきたのである。
 戦時編成の一個連隊だ。その宿営する区域も沿道の長きにわたる。県境を越えて愛媛県に入った連隊は久主岩川から落出の筋向いの磯ヶ成まで、距離にして八、九㌔はあろう。この街道に点連する民家を宿営に利用し、当然経理に関わる間題が伴う。中津村収入役の篠崎佐吉(筆者の祖父)は役場の事務員を連れて連隊経理部へ出頭し、兵員宿営に関しての諸々の清算をすませた。
 「なんしろ一晩で勘定して、その夜のうちに支払いを受けんことには、出発してからではどうにもならんことで弱った」
と、老後の佐古は語っていた。
 早朝、中津村地区を出発した連隊は落出を通過し、昼食時には弘形村の中間部にさしかかっていた。連隊は景勝地御三戸を中心に、道路を長きにわたって休憩、昼食をとった。弘形村をはじめ留守家族、および婦人達は歓送接待に忙しかった。この兵隊の中に中黒岩出身の城山鉄瓶もいた。佐吉の妻のいとこ、ナカの夫である。鉄蔵は補充兵役の輸卒、召集を受けて入隊し、軍馬をひいての出征の途中だった。
 兵も馬も行軍に疲れていた。ナカは重箱におはぎをつめ、ミユキ、元の二児をつれて御三戸へ行き、オヤシキという場所で軍服姿の夫と面会が出来た。鉄瓶は二児の頭をなでながら、おはぎを幾つも幾つも頬ばった。
 中黒岩の男のうちに「鉄兄いは酒が好きじゃけん、一杯飲ましてやらねばー」というのがいた。彼は袖に忍ばせてきた二合徳利の酒を、おはぎを食っている鉄蔵の湯のみへ、周囲の目を盗んでとくとくとついだ。そして「鉄兄い、武運を祈るぞ、留守のことは心配するな」と鉄瓶の耳へ、そうささやいた。
 昼食の終った連隊は、ラッパの音と共に三坂峠めざして出発した。村人達は行軍の最後尾の一兵が見えなくなるまで見送った。
 いま私は一枚の古い写真を手にしている。城山鉄蔵が軍服装で写っている。小銃弾を入れる前盒を右腰にまわし、銃を構えている。裏に「明治三十七年五月廿日、日露役出発二際シ三津浜ニテ、弐拾六才」と書いてある。してみると連隊が御三戸で昼食をとり、鉄蔵が家族や村人と別れを惜しんだのは五月一六日から一八日あたりのことだったろう。