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美川村二十年誌

二、新道開通

 久万山の地には古来土佐街道が通じ、松山・高知を結ぶ最短距離の道として利用せられて来たが、何としても三坂の険路は最大の難所となっていた。この三坂の急坂があるため久万山は文化から取り残され、孤立して山里の生活を余儀なくされていた。元禄年間に久万町村の仁人山之内仰西が自ら資を投じ、「鍋割」と呼ばれた最も険難の箇所を開さくして行路の便をはかったと言われている。それにしても、
  えらいものぞな明神馬子は 三坂夜出て夜もどる
 三坂通いすりや雪が降りかかる
    もどりゃ妻子が泣きかかる
 という哀れをさそう馬子唄に歌われたような、松山城下から隔絶された山間地であった。
 久万山を開発するためには三坂を開さくして新道を通じねばならない。このことを真剣に考え、この難事業に取組んだのは、二代郡長として明治一四年(一八八一)に上浮穴郡に来た桧垣伸であった。またこれを助けた井部栄範・梅木源平・山内賤雄・佐伯義一郎らの功も忘れてはならない。
 交通開発の必要を痛感していた桧垣に、直接呼びかけて来たのは高知県高岡郡長の大西正義で、明治一七年(一八八四)のことであった。
  土佐は南陬の山国で一大道路開通の議が持ち上っている。その路線として宇摩郡川之江に出るものと、久万三坂を経て松山に向うものの二つが考えられる。中央に出るに便利とて川之江に賛成する者も多いが、久万を経て松山に出る道はわずか三一里(一二四㌔)の短距離で松山との物資交流の上からも良しとする者も多い。久万山はどう考えているのか。
 という話である。桧垣はもちろん大賀成であるが、これを戸長梅木源平、二宮民蔵らにはかって沿道各村の戸長の意見を徴すると共に、自ら三坂の実地踏査を行い、ようやく明治一八年に内務省に歎願書を提出する運びになった。
 もっともこうした土木工事が一地方有志の努力のみで達成されるものではない。また明治一七年の時点ではこの路線と共に讃岐丸亀・多度津から琴平に出、徳島県を経て高知に至る路線の必要が唱えられ、両者を合せた「四国新道」というものが三県の議会で論議されていた。三県とは愛媛・徳島・高知で当時の愛媛県は讃岐国を合せており、まだ香川県は存在していなかったのである。
 明治一八年九月八日に山県内務卿から三県に対して新道開さくが認可され、工事費の三分の一は一八年以降五ヵ年国が補助するから、県議会の決議を得たら直ちに着手するように、という通知があった。しかし、これには多額の県費を要するため、愛媛県会でも賛否両派が対立する状態であったが、関新平知事は異常な熱意を示し、「五ヶ年継統道路新開之工費県会決議ノ義二付伺」が一一月二八日に内務卿に提出され、翌一九年二月一九日認可の指令が届き、工事内容は三月六日に県民に公表された。愛媛県の伊予分についてこれを見ると旧街道一七里一八町(七〇㌔)が一五里(六〇㌔)に短縮され、道幅は山間部で三間から三間半、勾配は三坂峠で二七分の一(そのため旧街道二里半の急坂が四里のゆるやかな坂となる。したがって六㌔のびる)工事費は一七万八〇〇〇円、一里につき平地で七〇〇〇円から八〇〇〇円、山間部で九〇〇〇円から一万円、重信川架橋九〇〇〇円、久万川架橋四ヶ所一万四〇〇〇円と内訳され、愛媛県分の工事区域は六区に分けられた。一、二区は讃岐分で、三区から六区は次の通りである。
第三区 温泉郡松山ー下浮穴郡久谷村字大久保    約四里
第四区 下浮穴郡久谷村字大久保ー上浮穴郡東明神村 約三里
第五区 上浮穴郡東明神村ー上浮穴郡中黒岩村    約四里
第六区 上浮穴郡中黒岩村ー上浮穴郡久主村国境   約四里
 この外、人足の労働時間は一〇時間で三〇分の休息三回、賃金は月給九円以内、人足は県民を雇うこと、常雇には帽子・ハッピを給することがきめられている。そして明治一九年四月七日讃岐国琴平宮で五、〇〇〇名が参列して盛大な起工式が行われ、五月中旬下浮穴郡宮内村(現砥部町)を皮切りに各工事区で相ついで着工された。(高須賀康生氏の研究による)
 三坂峠から南は明治二〇年九月から工事が始められ、梅木源平・井部栄範・佐伯義一郎・山内賤雄の四人が県から請負いの形を取った。沿道各村は供出夫役、夫役に出られぬ所は日当一五銭を出した。上浮穴郡の地元負担は四万一八〇〇人役(内夫役二万八一一四人、日当二〇五五円六七銭)となっている。
 また延長一二里(四八㌔)の路線の架橋用材もおびただしく、桧材一五〇〇本、四二万五〇〇〇才は官木の払下げを受けている。
 桧垣郡長は、「新道開さくかぞえ歌」を自作して、郡民を激励し自らも作業人と共に歌って陣頭指揮をしたという。
 一ツトセ 人の知りたる伊予土佐の
  通路は山また山ばかり ソレ開さくセー
 ニツトセ ふだんの運輸も戦時にも
   通行便利が第一よ ソレ国のためー
 三ツトセ 道は馬車道 四間幅
   一間三寸勾配に ヨク測量セー
 四ツトセ よもやだのみじゃ出来はせぬ
   前代未聞 大事業 ミナ熱心セー
 五ツトセ 岩も掘割れ 山もぬけ
   往来に不自由のないように ソレ破裂薬
 六ツトセ むつかしうても三年の
   月日のうちには仕上げたい コノ開さくを
 七ツトセ 難所の工事は久万三坂
   黒岩 黒川 大身槍 ソレ突き通セー
 ハツトセ 約束極めし村々の
   出し夫は一戸に百人余 ソレ精を出セー
 九ツトセ 工事のつもりは三十万
   官金ばかりを当にせず ミナ負担せよ
 十ツトセ 通りぞめには賑やかに
   開通式をばしてみたい 土予国境で
 桧垣部長の意気込み、またそれを助けた人々、郡民全体の協力一致あってこそこの難工事、大事業は成就した。昔の人は立派である。桧垣郡長などは久万山開発のために自ら世論を起し自ら実行している。世論に引きずられて、事がきまれば部下にまかせるというような今日の為政者とは心構えが違うし、一世紀前の土木建設技術の幼稚さの中で、今日では想像も出来ない苦心をしたことであろう。
 こんな話がある。岩石を砕くのに火薬(郡長は破裂薬と歌っている)を用いたのもこの地方で最初だった。「セーザン」と呼んでいたが、誰も「ダイナマイト」の使用法を知らず、郡長から相談をうけた広島外語学校を出た西明神村の青年梅木正衛が辞書と首っ引で翻訳し、こうであろうと火をつけたら大音響で爆発した。「全く危いことでした」と本人が語ったと宇都宮音吉が記している。
 明治二〇年から始められた弘形村を貫く新道は中津村旭の付近を二五年に仕上げており、記念の滝には関知事の頌徳碑もたっている。この路線で最も長距離を占める弘形村の先祖たちの夫役奉仕はおびただしいものであったろう。感謝の念を新たにするものである。