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美川村二十年誌

一、久万山騒動

 明治四年八月に久万山騒動というものが起った。これは明治政府の文明開化の政策が久万山住民に理解されず、また政策に旧物破壊の行き過ぎもあり、住民に藩政時代を慕う心を起させたことにある。廃藩置県で旧藩主久松定昭が東京に移住することになったのを引とめようとして徒党を結んで久米郡まで進み、これに浮穴郡の里分、久米郡の者が同調して騒動したことをさすのである。
 この事件について杣野村庄屋として鎮撫につとめた小倉門十郎は、のち生家の弘形村有枝に帰り山内門十郎となって県会議員にも出て活躍するのであるが、明治三二年に当時を回想して、「辛未久万山動揺略記」というものを綴っている。これは有枝出身の篠崎栄男の所蔵するものであるが、これによって事件の概要を記すことにする。
 まず騒動の原因としては、
 1、明治三年に役人が神仏分離と称して、建てて七〇年前後という新しい社寺を取りこわし、またいかがわしい神体は焼き捨てたりしたため信者が怨んだこと。
 2、戸籍法・徴兵令・種痘などの実施が誤まり伝えられて、新政府は人民の生年月日を調べておいて外人の求めに応じて人や牛を外国に売渡すのだと考えられた。
 3、廃藩置県がせまり、旧藩主が知事の職を免ぜられて東京に去ることに別離の情のしのび難いものがあったこと、などを挙げている。
 事件は八月一三日にはじまる。まず東川村、柳井川村から松山に強訴しようとする動きが出てくる。これはこの事件の主謀者となった日野浦村の小間物行商人の山内才十という者が各村々を説いてまわり、立ち上らせるようにしたようである。形勢を察知した久万町村の会所詰役人からの急使をうけて杣野村庄屋小倉門十郎、大川村庄屋土居保吉郎らは柳井川に出張している。
 しかし翌一四日午後六時には下坂の村々は柳井川村を先頭に、蓑笠・鉄砲・竹槍をたずさえ、二日分の糧食を持ち、たいまつを照して行進し、口々に「この出行に応ぜぬ者は即時に家に放火するぞ」と叫ぶ。ためらっていた者も、この勢に押されて加わる。北坂の方は東川村が先頭に立ち七鳥村・仕出村がこれに従う。こうして久万町村法然寺に集合して夜を明す。松山藩租税課詰の役人や郡役人が説諭をするが応じない。松山藩庁まで出訴せねばおさまらぬ形勢となった。
 一五日には畑野川村民二〇〇人ばかりが加わり、一六日午前一時、法然寺で砲声、ときの声があがり、高張提灯、たいまつで道を照し、竹槍・火繩銃・脇差などを持ち松山に向って出発する。口々に「共に出行せぬ者は住家に放火する」と叫び、口坂七ヵ村の住民もこれに従う。一村ごとに隊を作り、夜は高張提灯、昼は村名を記した旗を持って目印しにした。郡役人は制止に努めるが、久万山では押えることが出来なかった。
 久谷村井手口まで進んだ行列の中を、偵察に来た者が騎馬で松山に向って駈抜けたため負傷者が出て殺気立ったとき、乗馬で現れた久万山租税課の重松少属は竹槍で剌され、重傷を負うた。ここへ久松家から家従の公庄八郎平が乗馬で出張して来て、久松公の直書を繰返し朗読して鎮めようとするが混乱の際で、よく理解されない。
 ここから強訴の一行は久米街道に道をかえて柳井川村が先頭で進む。荏原の道は兵隊が警備しているとの情報が入ったためである。
 高井村に達した時、久松公代理として元家老職の水野主殿が四、五名の藩士を伴って出張し、西林寺本堂で頭立つ者に説諭を加えたが、浮穴里分、久米郡の人数が久万山農民の進出に勢いを得て大いに気勢をあげたため効果がなかった。
 藩庁は兵隊の力で追払うことを考えたが、久米で進路を断つことが得策であると思い直して、久米に向って次々と兵隊をくり出して来た。久松定昭公も樽味まで近侍をつれて出馬されたが、もはや説諭も効なしと断念されて、涙をおさえて帰邸されたという。
 夕方に至って久米郡租税課出張所に放火した者がある。炎々と火の手のあがる中で建物・器具・記録類が悉く焼失した。久米・浮穴里分の強訴人、乱暴を行う者はその数を増し、平生うらみを持つ家々を破損し放火し、ここかしこから火の手が上り、真昼のような明るさとなった。
 これに対して久米駅の東七〇〇㍍くらいの岡の鎮守宮に杣野村民ら二〇〇余人が集結して徹夜した。大混乱の中で取締りは行き届かないが、久万山はこの放火暴行には加わっていない。
 一七日午前七時、兵隊の攻撃がはじまり、各所で大砲・小銃の音が聞える。各所に集合する強訴人に対し、兵隊は武装解除をはじめた。三蔵院と日足八幡の広場に竹槍・鉄砲・脇差の類が積上げられた。竹槍は二ヵ所に積み重ねたが小家程の高さに達した。兵隊はこれに火をつけて焼き、鉄砲・脇差の類は繩でしばり、数匹の馬に積んで松山に持ち帰った。
 兵隊はラッパを合図に総人員の出入口をかため、長屋・村上の少参事は各村の主謀者の名を呼び、捕縛して他に移し一同に対して次の文を朗読した。
  強訴ノ重キ法度タル事ハ各々承知ノ事ニコレアルベク、然ルニ今度兵機竹槍等ヲ携へ多人数強訴二及ビ、アマツサヘ上ヲ憚ラザル所業少カラズ、ヨツテ厳重ノ所置二及ブベキ所、前非ヲ悔ヒ謹慎ノ体相見へ候二付、ヒトマズ帰村致サセ候条、精々職業ヲ励ミ、謹テ後ノ指図ヲ相待チ申スベキ事 
  辛未八月                    松山藩参事
 この式が終ると兵隊は道路の両側に並び、一村毎に組頭がまとめて帰村の途についた。先頭が高井に達しても後尾はまだ久米にあり、その人数はおよそ四、〇〇〇人であった。井手口で重松少属に傷を負わせたのは東川村の某であったが逃亡して罪を免れ、主謀者の日野浦村山内才十は入獄して刑を終えたが、結局逃亡して所在は不明であり、久米租税課や民家に放火した者は死刑に処せられた。
 帰村後四、五日たって各郡別々に庄屋、長百姓が久松邸に呼ばれ奥平貞幹、公庄八郎平立合いで定昭公から直接告諭があった。これは公庄八郎平が井出口で朗読した直書と大同小異のものであった。
  此方唯今ノ身分、何事ニモ預ル筈コレナク候へ共、昨今一山ノ者共多数相集リ願ノ筋コレアル趣、願ノ件何事カハ存ゼズ候モ、ホノカニ承リ候得バ不肖ノ此方ヲ存ジクレ、全ク旧情ヲ思ヒテノ願筋コレアルヤニ相聞へ、此度朝廷御一新ノ儀ハ皇国ノ御政道一筋二出デ万民益々安堵致シ候様トノ厚キ御主意ヲ以テ諸藩一様二廃セラレ候事ニテ、此方二於テモ深ク有難ク存ジ奉ル儀ニテ其方共モ有難ク相カシコマリ申スベキ所、取マドヒ彼コレ願立候テハ筋立タザル次第恐入リ候事ニコレアリ候、タトヒ別二筋立候願ヒノ品コレアルトテモ、カネテ御沙汰二相成候通リ、徒党ガマシキ儀ハ何程然ルベキ箇条ニテモ御取上ゲ相成ラズ、却ツテイタズラニ騒立テ上ヲ憚ラザル運ビニ相聞へ以テノ外ノ事二相成候へバ、イズレモ早々引払ヒ安座ノ上、委細ノ存意穏便二申達シ候様致シタキ事二候、サモナクテハ此方並ビニ銘々共二於テモ朝廷へ対シ奉り相スマザル儀、サ候時ハ此方ヲ存ジクレ候儀モ却ツテ当家ノ不為ト相成リ、共二迷惑二及ビ候ヤモ計リ難ク、甚ダ以テ心痛二及ビ候、此ノ段トクト申入レ候、深ク考ヘクレ候様致シタク、トニ角早々引取り安座致候様呉々頼ミ入リ存ジ候、就テハ態々使ノ者ヲ以テ取アエズ申シ遣シ候事
  辛未八月十六日                  久松定昭
        久万山村々
          庄屋百姓中
 同じ日、松山藩庁よりも出頭するように達しがあって、船田耕作・梅木伝・小倉宗衛・船田信衛・小倉門十郎・菅伝吾・梅木久五郎・梅木二三・鶴原太郎次・船田健一郎外長百姓二〇人がニノ丸庭に出頭して菅・鈴木等大参事から次のような訓示があった。
  コノ頃人ヤ馬ヲ外国二送リ血ヲ取ルト言フ事、専ラ流布スルアリト聞ケリ、コレハ無根ノ風説二付、コレニ迷ハザル様致シ精々家業ヲ怠ルベカラズ、今ノ朝廷ニアリテハ人ノ命ハ極々大切二遊バサレ候、カツ又久松旧知事公ニハ近日御帰京アルベキ筈ノ処、其節人民ラ騒ギ立テ候テハ第一朝廷へ対シ不都合ナル次第、又久松公ニアリテハ御心痛カツ迷惑トナル訳二付、必ズ謹慎安堵致シ候様、帰郡ノ上ハ村方一統へ示諭二及ブベシ、
 その後、九月上旬に久松公東京御出発の模様が見えたので各村々申し合せて新米一、二俵ずつを調製して菅伝吾・小倉門十郎が代表して献納目録を持って久松邸を訪問している。
 また久松公上京後も、各郡代表は久松旧知事の復職方を政府に歓願することをきめ、久万山からは梅木伝・鶴原太郎次・小倉宗衛・梅木久五郎・平岡亦左衛門らが他郡代表と共に上京して大蔵省判理局へ願い書を提出している。しかし時勢の変遷で止むを得ないことを説諭されて帰国している。