データベース『えひめの記憶』
美川村二十年誌
第一節 藩政時代
弘形村は明治二二年の「市制及町村制」の施行によって、翌二三年に藩政時代からつづいて来た有枝村・大川村・上黒岩村・中黒岩村・日野浦村の五村を合せて生れた。新村名は「ヒのうら」「くロいわ」「おおカわ」「ありえタ」の集字によるものである。
昭和三六年に上黒岩で、繩文草創期といわれる一万年以上にさかのぼる古い人類の居住遺跡が発見されて、この土地の歴史の古さが人々を驚かせた。しかし繩文期につぐ弥生期に水田耕作が始まってからは、人間の生活の中心は海岸に近い平坦地に移ってしまい、この山間地は歴史から忘れられてしまった。したがって一七世紀以後の藩政時代までは、この地方で特記する事がらもないので、第一篇久万山の歴史にゆずることにし、ここではそれ以後のことについて記することにする。
藩政時代のこの村の人々の生活がどのようなものであったかを知ることは、きわめて困難であるが、幸い大川村庄屋土居家には珍らしく庄屋文書が数多く収蔵されている。これをくわしく調査することは容易なことではないが、二、三のものを取り上げて説明することにしたい。
元禄三年(一六九〇)五人組帳 この時代に隣保共助団体として藩から強制的に結成を命ぜられた五人組は本百姓五戸一組を原則として犯罪人の連帯責任、納税の確保や藩政上の意志伝達機関などに利用された。五人組帳には五人組が守るべき法規を記し、組頭以下が連名連判をしたもの。前書と請書があり二通作成して一通は領主へ、一通は村で保管したものである。いま大川村の前書を見ると、次のようである。
前 書
一 御公儀様より段々仰出され候御仕置の趣、堅く相守り些も相背申まじく候御事。
一 毎月寄合講壱人も残らず罷り出、数ヶ条慥に承知仕り、毛頭違背仕まじく候御事。
一 村中何等の相談の儀御座候節は早速罷り出申すべく候、もし五人組の内我ままの申分仕る者は急度意見を加え心底直させ申すべく候、然る上にても悪性者御座候はば早速取出し御断り申上ぐべく候、隠おき後日に願中立候は組頭、五人頭迄落度に仰らるべく候御事。
一 組頭五人頭共の儀は申に及ばず小百姓の内別何等の令出候節は親子兄弟縁者にても毛頭依恬贔屓仕らず正直に承届け、内証にて相済し申べく候、自然内証にて埓明き申さず候はば庄屋五郎衛門殿相断申すべく候御事。
一 村中耕作互に精を出し申すべく候、もし五人組の内無精成もの御座候はば急度申つけ作方精を出し実体正路相勤申すべく候。
附、時候柄病人御座候か又はあやまち等仕候はば村中より其者の作方仕付仕るべく候御事。
右の条々少も違背仕るまじく候、若相背くに於ては、忝くも、
梵天帝釈四大天王惣日本国中六十余州大小神祇、殊には伊豆箱根両所権現三嶋大明神八幡大菩薩天満大自在天神部類眷属神罰冥罰各身中に罷蒙るべき者也、仍て起請文如件。
敬 白
元禄三年午十一月
大川村組頭 仁左衛門
同 次衛門
同 新衛門
五人頭 九郎左衛門
(外十五名略)
百 姓 四名(略)
大川村無縁 新衛門
(外十六名略)
大川村百姓 半 助
(外二十五名略)
大川村百姓 惣衛門
(外二十三名略)
大川村百姓 小左衛門
(外二十三名略)
元禄二年戸口・牛馬数・年貢率
○大 川 村
石 高 三〇一石一斗四升
田 一七〇石一斗七升(一〇町一畝一歩)
畑 一三〇石九斗七升(一三町八反八畝)
家 数 一〇九軒
人 数 五五八人(男三〇二人、女二五六人)
牛 馬 八〇疋(馬七〇疋、牛一〇疋)
内 訳
本 村
石 高 二七六石九斗五升三合
家 数 九〇軒
人 数 四六六人(男二五八人、女二ご一人)
梨 下 り
石 高 一六石九斗六升二合
家 数 一六軒
人 数 六八人(男三六人、女ご一人)
木 地
石 高 七石二斗二升五合
家 数 三軒
人 数 四二人
年貢元年五割六分、二年五割七分
(この年分、米三二〇俵納入ずみと記す)
○上黒岩村
石 高 一六一石九斗
田 八反八畝一五歩
畑 十三町五反
家 数 六二軒
人 数 三〇八人(男一五一人、女一五七人)
牛 馬 二四疋(馬一八疋、牛六疋)
内 訳
本 村
石 高 五六石六斗九升五合
家 数 二三軒
人 数 一一五人(男五三人、女六二人)
たどのせ
石 高 四六石三斗三升七合
家 数 一二軒
人 数 七五人(男三七人、女三八人)
堤
石 高 三七石八斗七升二合
家 数 一三軒
人 数 五五人(男二八人、女二七人)
蕨 打
石 高 二〇石一斗八升七合
家 数 一四軒
人 数 六三人(男三三人、女三〇人)
年貢 元年三割四分、二年三割八分)
(この年分、米五七俵納入ずみと記す)
○有 枝 村
石 高 一九一石四斗七升
家 数 九〇軒
人 数 四四四人(男二三三人、女二一一人)
内 訳
本 村
石 高 八九石八斗七升二合
家 数 三二軒
内 分
石 高 四四石九斗四升九合
家 数 二一軒
あまが滝
石 高 八石四斗七升
家 数 五軒
高 継
石 高 二一石四斗四升九合
家 数 一〇軒
程 野
石 高 二六石七斗九升三合
家 数 二二軒
土居家所蔵の「元禄二年諸控」では右のようで、大川村・上黒岩村・有枝村についての記載しかなく、しかも有枝村はきわめて簡略で、中黒岩村・日野浦村は記載されてないのが残念である。次に県立図書館所蔵の「久万山手鑑」(原本は土居家所蔵)によって弘形村関係の部分を摘記しておく。これは寛保前後の記載である。(元年は一七四一年、八代将軍吉宗の晩年に当る)
有 枝 村 庄屋 弥次右衛門
高 一九九石四斗七升(二八町七反七畝)
田 一九石六斗三升(一町五反一畝)
畑 一七一石八斗四升(二七町二反六畝)
田 三町七反四畝(元文五年=一七四〇か)
大 川 村 庄屋 五郎右衛門
高 三〇一石一斗四升(一九町六反二畝)
田 一七〇石一斗七升(八町五反四畝)
畑 一三〇石九斗七升(一一町八畝)
田 八町五反二畝(元文四年=一七三九か)
上黒岩村 庄屋 権之助
高 一一八石四斗六升(一〇町一畝)
田 八三石三斗(三町五反)
畑 三五石一斗六升(六町五反一畝)
中黒岩村 庄屋 次郎右衛門
高 一一八石四斗六升(一二町七反六畝一五歩)
田 一四石七斗五升(八反六畝一五歩)
畑 一〇三石七斗五升五合(一一町九反)
日野浦村 庄屋 次郎右衛門
高 二四〇石三斗(三三三町二反五畝一二歩)
田 一一石一斗八升二合(六町一畝一七歩)
畑 二二九石一斗一升八合(三二七町二反三畝二五歩)
田 八町五反三畝(元文四年=一七三九か)
高計 九七七石八斗三升(四〇四町四反一畝三七歩)
田計 二九九石○三升二合(二〇町四反三畝二歩)
畑計 六七〇石八斗四升三合(三八三町九反八畝二五歩)
畑の収穫高は米に換算したものである。弘形村分の旧村田畑高の合計は筆者の計算であるが、収穫高合計が合わない。有枝分に八石と中黒岩分に四升五合のくい違いがあるのは、当初からの計算違いか、誤写によるものか確かめようがないのでそのまま記載しておく。
藩政時代の久万山は俗に六千石の地と呼ばれて二四ヵ村を持っていたが、そのうちの有枝村・大川村・上黒岩村・中黒岩村・日野浦村の五ヵ村の収穫高は約一千石で、久万山の約六分の一を占めていたわけである。その年貢率約六割(一篇四章藩政時代の久万山参照)と見て、米にして年々六百石を納入していたことになる。ただし久万山六千石とは松山一五万石を形成する藩政初期のもので、その後の開墾による増田は含まれてないから、年貢率が当時の実状から見て、極めて厳しいものと断定することは出来ない。
庄屋については、中黒岩村・日野浦村は次郎右衛門が兼務している。なお次郎右衛門は沢渡村も兼務していたから三村の差配をしていたわけである。いま明治五年の「松山領里正鑑」というものを見ると、各村の最後の庄屋名が記してある。有枝村は山内寅吉、大川村・上黒岩村は土居通昌で居村大川村とあり、中黒岩村・日野浦村・沢渡村は船田清平で居村日野浦村とある。して見ると船田清平は寛保の頃の庄屋次郎右衛門の子孫で、次郎右衛門は日野浦村に居宅を持ち、長くこの家が三村の庄屋を兼務していたのではないかと思われる。
次に藩政時代中期の寛保の頃と、明治初年の戸数・人口を比較して見ると、一三〇年くらい距てて全く戸数・人口に増減がないのに驚くのであるが、これは全国的な現象でもある。藩政時代の後半は日本の人口は横ばい状態にあったという通説は、この山村でもそれを証明している。なお明治以後の弘形村の戸口を現存資料によって作成して掲げておいた。