データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

美川村二十年誌

二、土佐農民の久万山逃散

 1、池川紙一揆
 天明七年(一七八七)に土佐国の用居・池川・名野川の百姓七〇〇人ばかりが松山藩を頼って菅生山まで村出した事件がある。世に池川紙一揆と呼んでいる。
 この村々は地理的にも久万山とよく似ており、やはり山畑に楮を植えて紙漉きをしていた。藩買上げのものを「お蔵紙」というが、それを納入した残りは自由販売が許されていたので、伊予分からも紙商人が入り込んで取引きが行われて、村々の生活をうるおしていた。ところが天明五年(一七八五)に土佐藩は財政不足を補うため、紙を専売として他国商人の出入を禁じ、京屋常助という者一人を指定商人としたため、これまでの相場よりも三割も安く買収られることになった。これでは紙漉百姓は立ち行かない。藩へしばしば歎願したが聞かれないのみか、代表者を厳罰にするといううわさまで伝わって来た。
 百姓たちは村役人にかくれて会合を重ねた末、松山藩に逃散して日傭いに使ってもらうように歎願することに決した。用居、池川の五六三名は女子供、老人には松山藩に住みついたら迎えに来ると言い残し、二月一六日の夜、池川のヤスの川原に集まり、ホラ貝を合図に水峠から雑誌深山を越えて一七日の朝、東川村の東古味、河崎神社までたどり着いた。
 さっそく代表が東川村庄屋の梅木茂十郎を訪ねて、「松山藩に日傭かせぎで置いてほしい」という歎願書の取次ぎを依頼し、その結果のわかるまでと、村民の世話で食事を与えられて神社で二泊したが、ここでは土佐に近すぎるというので、一九日に菅生山大宝寺に移った。また二四日には同じ境遇の名野川郷民一二七人が国境を抜けて大宝寺に来て合流し、その数六九〇人となった。
 松山藩では郡奉行金子万右衛門が久万山郷の村役人を召集して菅生山一帯を警戒するし、土佐藩は村役人の急報で郡奉行林数馬らが松山藩の許可を得て入国し、二五日に久万町の菊屋与右衛門方に泊って、金子の援助を得て策を講ずる。
 菅生山は時ならぬ況乱である。七〇〇人を本堂と五つの坊に分宿させ、酒を禁じ、食事は松山藩から朝一汁一菜、昼は握飯二個、夜は粥を与えたが一日の入用米四石余、お茶一日七斤を要した。寺の入口には新しい番所を作り足軽二名、郷筒二名が詰め、大庄屋の許可札を持つ者だけを通し遍路には附添をつけて参詣させた。
 両藩の郡奉行は、「願筋は聞届けるから帰国するように」とかわるがわる説諭するが、役人の言うことはいっさい聞かない。二〇日たっても動こうとしない。彼等は東川村庄屋に取次いでもらった松山藩の回答を待っていたのである。しかしその松山藩も土佐藩の体面を思い、他藩の者を引取るわけには行かないと、彼等の願いを拒絶して来た。失望した百姓たちは、改めて大洲藩への立退きを計画しはじめた。
 日を経過するほど百姓たちは危険にさらされる。大宝寺七世の住職快豊は、何とか円満に解決させてやりたいと、調停の役を買って出ることを決意した。そして下寺の理覚坊と七鳥村の末寺、西光寺を呼んで、まず久万町宿泊中の土佐藩奉行林数馬の諒解を求めさせた。林としても他藩に数十日も留って途方にくれていた矢先なので、寺院の手による解決策を承諾した。
 快豊は、処罰を受けることのないように取計ってやるからと百姓たちをなだめて、彼等の願筋を書き出させた。願いは一七ヵ条にわたるものであったが、これを林を通じて土佐藩に伝えると共に、西光寺を高知城下に遣わして同宗の常通寺に百姓に後難のかからぬように奉行所に交渉してもらうよう依頼した。
 こうした寺門の骨折りが成功して、百姓の逃散の罪は問わず、もと通りに平紙の自由販売をゆるされることになって、百姓たちは国境まで常通寺に迎えられて三十余日ぶりに帰村することが出来た。
 2、名野川一揆
 天保一三年(一八四二)七月に名野川郷民三三〇人が、ふたたび久万山に逃散して菅生山にこもるという事件が起っている。
 名野川郷の大庄屋小野庄右衛門が数年にわたって過分に年貢を取立てたことがわかって百姓が騒ぎ出したとき、遅越庄屋藤崎命平と大尾庄屋上岡下助が大庄屋に年貢取すぎの払いもどしを迫って百姓を煽勤したというのである。小野は藩から謹慎となり、出頭を命ぜられた藤崎命平は自殺し、投獄された上岡下助は獄死した。二人に指導されていた名野川郷の遅越村・下名野川村・森山村・北川村の村民らはこの藩の処置を不当として七月四日の夜、峠ノ越の氏宮に集まり、森山・大尾から国境を越えて、久万山分の久主、稲村・黒藤川の道を抜けて七鳥村の熊野神社にたどりついた。
 土佐側庄屋から緊急事態発生の連絡を受けた東川村庄屋梅木伝左衛門は、七鳥村庄屋船田助十郎と共に、国もとに立帰るように説諭して見るが承引しない。土佐の近村の庄屋らも七鳥村に来て西光寺を宿所として、連れ帰る工作をするが受つけず、他へ移動しないように見張りをするばかりである。松山藩からは久万山代官津田半助の手代田村蔵之進、同中村小作はじめ大庄屋窪野村の船田虎太郎、直瀬村庄屋小倉惣左衛門、久万町大庄屋鶴原三蔵らも七鳥村に来て警戒に当り、まず百姓たちを村別に七鳥村の民家に分宿させ、取あえず久万町から米数百俵を取よせて彼等の賄いをした。
 土佐藩郡奉行寺村勝之進からも、久万山代官に対して善処方を依頼して来たが、自らも下役をつれて一一日に名野川に出張してここを本陣として、庄屋らを指揮し、連絡をとることにした。
 もともと百姓らは菅生山を目指して村出して来たのであったが、土佐側の庄屋らは天明度のように事件を大きくせず、内々に収めたいとして説諭をつづけ、久万山側としてもこの考えに同調して七鳥村に留めたが、一〇日たっても解決しない。西光寺住職は国境に近いここに留め置いて召捕られるのを見るに忍びず、本山扱いにしたいと考え、百姓らはひたすら菅生山入りを望み、ついに一六日に庄屋らの制止を聞かず、有枝村を経て菅生山に移った。
 事ここに至っては土佐側役人としても百姓を召捕るしかないと考え、松山藩と連絡をとり郡奉行川田猪久蔵、毛利源六郎、寺村勝之進らは手勢をつれて畑野川村に入込み、二〇日久万町茶屋官蔵方で久万山代官津田半助らと懇談した。寺村勝之進は、津田にこのたびの労を謝した上、天明の時は百姓の申し分に理もあり寺門の扱いにまかせたが、それ以来郷民共は少しの事でも松山藩に出て菅生山にすがれば願のままになるという気風を生じ、支配に困難を生じている。このたびの件は百姓が村役人の争いに加わって村出したもので同情の余地はないものと考えている。是非とも寺僧に手を引いてもらい、藩の扱いをもって帰国させたい念願であるから、松山藩に取次ぎ、ご協力を願いたい、と心中を打明けて懇願する所があった。
 このことは津田半助としても同感である。早速に松山藩に願い出て許可を得、寺村勝之進に対しては二五日早朝を期して菅生山を取囲み、召捕るよう手配することを連絡し、いっぽう大室寺住職(二一世弘阿)を呼出し、土佐側の意向を伝え、松山藩としても寺門の取扱いは認めぬことに決した故、百姓共にその旨を伝え、山門から出して土佐側に引渡すこと、帰村後にきびしい扱いはしないよう願っておくから、と言い渡した。
 さて二五日、畑野川に待機していた土佐藩足軽およそ四〇〇人が一番手、二番手、三番手に分れ峠之御堂を越えてそれぞれ本堂右方から山際まで、本堂左方から山際まで、本堂正面を取かこみ、松山藩からも数百人の猟師、百姓にそれぞれ鉄砲、竹槍などを持たせて待機させ、逃散百姓は裏門から一人々々出して、腰繩をかけ召捕った。全員召捕った後で、猟師らは所持した鉄砲をいっせいに打放したので、その音山谷に響き渡ってすさまじい有様であったと伝えている。
 事件の結末は逃散百姓三二九人のうち首謀者と見られる五四人を高知に送り、雷同した大部分の者は帰村させた。また責任者として寺村・川田・毛利の三郡奉行を免職し、大庄屋小野庄右衛門は苗字帯刀を取上げ、免職させられている。