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美川村二十年誌

一、久万山一揆

 松山藩六代藩主松平定喬の寛保元年(一七四一)七月五日から八月一三日にかけて、久万山農民およそ三、〇〇〇人が隣藩大洲城下に逃散したという事件がある。逃散は百姓一揆の一つで、領主に反抗して耕作をやめて他領に逃れて生きる道を求めようとするもので、領主側としては年貢は取れず、土地は荒れ、しかも悪政を天下にさらすことになるので非常に効果的であった。しかし「斬捨て御免」の武士の時代に領主に反抗すれば首謀者は死罪となるのが通例であったから、これは生か死かの極限に追いつめられた場合の、最後の反抗と見るべきものである。
 では久万山農民をそのどたん場まで追いつめた理由は何であったろうか。いっぱんに上席家老奥平久兵衛が久万山横領をたくらみ、久万山に重税を課して、自分の領地としてから重い課税をしたという非難を受けぬようにしようという計画が、事前にこの反抗にあい遠島となったというように伝えられているが、そうではないようである。この事件をくわしく記した「松山叢談」によると久万山は山畑が多くて年貢米が納められぬため、特産の茶を売って時の米相場にしたがって銀納している村々が多かったが、近来米の値段が上がり、反対に茶の値段が下って年貢納入に苦しんだ。ことに享保一七年という関西をおそった大飢饉からわずか九年後のことで、飢饉のためうけた痛手が十分に回復していなかった時だけに、こうするしか生きる道がなかったと記されている。だがこの説明も十分ではない。
 久万山一揆は実際は大洲逃散の四ヵ月前の三月七日に起っている。それは大味川・東川・七鳥・仕出・有枝・直瀬の六ヵ村が松山城下に願い事があると称してまず三坂を越えて久米村の八幡宮まで出ており、つづいて久主・黒藤川・日野浦・大川・沢渡・上黒岩の六ヵ村が土居村まで、さらに西谷・柳井川二村が石井村まで出たが、いずれも差留められてそれぞれ一泊した上で、久万山代官関助太夫はじめ久米郡代官、郡奉行らに久万町村につれもどされているのである。
 その時、これら一四ヵ村の者が代官に歎願したのは、松山藩が近年定めた「紙方新法」というものを取やめてもらいたい、という事であった。これらの村々は田の少ない北坂・下坂筋で、畑作と茶の外に山畑へ楮を値えてこれを原料にして農閑期に紙を漉いて売り、生活をうるおしていた。                           
 財政困難となって来た松山藩ではこの紙に目をつけて、財政補強のため紙の専売に乗り出した。つまり楮の強制買上げと、紙漉の強行であった。代官への歎願三ヵ条を見ると、「紙方新法」というものが、どんな内容であったかがわかる。
 一、楮の株改めが行われて、阿千本につき紙の斤目何程と見積って買上げられるが、見積が多すぎて他から楮を買入れねばならぬが、値違いで損失が大きい。     
 二、紙漉百姓は紙斤目いくらとして代米をもらうか、納入の日限をきめられて百姓仕事に差支え迷惑する。
 三、紙方掛役人の送り人馬、飛脚状持ちなどに要する費用が多くかかり、立ち行かない。
というのである。この願いに対して紙方奉行穂坂太郎左衛門、郡奉行吉岡平右衛門、代官関助太夫らのとった処置は、紙漉村である北坂、下坂の百姓たちを納得させるものではなかったらしい。
そのため、七月五日に下坂の久主村百姓が村出を起こし、しだいに川を遡って下坂の村々を合流させ、これに北坂が加わり大洲城下に逃散の形をとって来た。松山藩に願い出てもらちがあかないことがわかった今は、無益な抗争をするよりは村を捨てて、日雇いでもよい、大洲城下へ出て加藤の殿様に歎願して領内においてもらおうというのである。この集団は七月八日に大洲領の露峰村まで、一一日には臼杵村、一三日には内子村まで進み、河原で一泊している。
 松山藩主の定喬は二六歳で参勤交代の途上にあった。留守役人としては何とか穏便に解決したいと思い、郡奉行らがその後を追い、どのような願いであろうとも聞き届けるからと諭すが、彼等は役人の言うことはいっさい聞かず、一五日には遂に大洲城下にたどりついた。
 万策つきた代官関助太夫は、菅生山大宝寺の斉秀(同寺中興四世)に百姓帰村の取なしを頼み、遂に斉秀の大洲での説諭で解決するのであるが、百姓一揆というものは一つの勢いで、口坂の久万町村などは、もともと一揆を起すほどの理由もないのにその中に巻き込まれた形であった。斉秀の指示にしたがって各村々は願筋というものを書いて藩に提出することになるが、もともと紙漉村から動き出したこの一揆は、紙を漉かぬロ坂村々の願筋にはならない。そのため久万山全体に共通する願筋が必要となる。それが「米の値段が上り茶の値段が下り、金納の年貢に苦しむ」という「松山叢談」の記事となったものであろう。もちろん下坂、北坂の村々ではみな「紙方新法」の取やめを願筋の中に特筆している。
 こうしていっさいを斉秀にまかせることにした百姓たちは村出以来三三日目の八月一三日にようやく自分の村に帰って来た。いっぽう斉秀の手から藩に提出された村々の願筋は大きくまとめて二五項目くらいになるが、藩でも一々検討の上、まず「紙方新法」の取やめをはじめだいたいの願い筋は聞き届けるという寛大な処置に出ており、斉秀もなっとくした。その申し渡しは上席家老水野吉左衛門がみずから久万町村の法然寺に出張して、各村の代表者に対しておこなっている。ただ年貢率の引下げという願い出については不許可となっているが、他郡とのつり合いもあってのことと思われ、百姓たちもこの申し渡しに満足している。なお久万山全体に対し救米三千俵を与え、首謀者の取調べもなく、一人の罪人も出ていないのは大宝寺の顔を立てたもので、米一五〇俵を斉秀に送って労を謝し、また大洲加藤家および百姓の宿泊先へは謝礼の使を送っている。
 また藩の責任者処分としては家老奥平久兵衛を生名島へ、紙方奉行穂坂太郎左衛門を二神島へ、物頭脇坂五郎右衛門を大下島へ流罪にし、それぞれの家族もみな罰せられている。