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美川村二十年誌

第三節 土佐街道

 藩政時代に松山城下から高知城下に行くのに最も近い道として、久万山を通る土佐街道があった。
 「伊予古蹟志」というものを見ると、松山から高知までは二五里一八町余と記されている。一里を四㌔と見て一〇二㌔の行程である。次のように記してある。
 松山より土州に至る里程、松山札の辻より南、荏原に至る三里、荏原より熊町に至る四里、熊町より有枝に至る一里有半、有枝より七鳥に至る一里有半、七鳥より池川に至る六里、池川より横田に至る三里、横田より越智に至る一里、越智より佐川に至る一里、佐川より高知に至る七里、通計二十有五里十八町三十八歩。
とある。もっと近道もあったらしく、幕末のころ野沢某のかいた「久万山郷之図」というものに次のような書入れがある。
 近道、久万より下畑ノ川村道へ行き、それより東川村へ出、これより土佐領用居村、此所に番所あり、番所右手河原へ出て通りぬける道あり、これより池川村へ出、黒森という峠を越え、それより家老佐川の城下へ出、それより六里行くと高知御城下、右里数松山より十八里、人馬とも白由なり。
というのである。山道は木の枝のように多いといわれるから、各所に近道があったと思われる。
 ともかく松山方面から久万山を通って土佐に行く道は、ずい分古くから開けていたと考えられる。さきに書いた一遍上人は道後で生れ、文永八年(一二七一)秋から三年間、窪寺のほとりに庵室をかまえて修行し、ついで文永一〇年七月に岩屋に参籠している。窪野が現在の窪野にまぎれもない事からみて、三坂道を登って菅生山から岩屋寺へ来たものと思われる。さらにここから土佐へ通ずる道があったに違いない。
 その街道が盛んに使われるのは、やはり藩政時代になってからであろう。「松山叢談」の六代定喬の条を見ると、街道に里塚を立木で作ってあるが、木では年々修理がわずらわしいので、寛保元年(一七四一)三月に立石に改めて建てさせ、文字は祐筆の水谷半蔵らに書かせたとある。これが今に残る「松山札辻より何里」とある里塚石である。
 土佐街道は「松山古志談」というものによると、松山札の辻から、
  一里 久米郡天山村
  二里 浮穴郡森松村
  三里 浮穴郡荏原村
  四里 久万山久谷村 馬次
  五里 同  窪野村之内桜休場
  六里 同  東明神村
  七里 同  久万町村 馬次
  八里 同  菅生村
  九里 同  有枝村
  十里 同  七鳥村
 十一里 同  東川村
 十二里 同  縮川村
となっており、さらに一八町歩いて土佐国境となるのである。
 つまり土佐街道というものの伊予国の分は松山札の辻を起点として一二里一八町、ちょうど五〇㌔で、この間に一里から一二里まで一里ごとの道しるべの石標が建てられていた。この中で七里の久万町村は最も大きな町をなしていたから、馬で旅する人はここで乗替え、高知ー松山を通す旅人は宿をとり、また行商人の定宿もあってにぎわった。また久万山ー松山間では三坂を越えた久谷村の丹波が馬つぎとなって、茶店も繁昌したようである。
 さて里塚石は現在松山から三坂まででは二里の森松が残っているだけで、他は失われてしまったが、久万山分の六里の東明神から一二里の黒藤川までは全部残っている。このうちもとの位置を変えてないのは六里の東明神、八里の菅生分、九里の有枝、一〇里の七鳥、一一里の東川だけである。もっとも八里石はテレビの受信塔を作る工事の時、落石のため折れて、今は久万町教育委員会に保管されている。
 三坂峠の旧道を越えた土佐街道は、現在の東明神のバス停の下方、田を築き上げた石垣のかどに立つ「松山札辻より六里」の石標の所に出てくる。草鞋がけで踏みしめた古道が今も残っており、道の外側には古びた常夜燈も立っている。この道が本明神あたりで現在の国道すじに入り、入野を経て七里の久万町村に出る。七里石はいま久万中学校の上手の人家の前に立っているが、これはもとの位設ではない。
 久万町村からは、ほぼ町なかの道を経て野尻に出、宮の前から越峠に向い、久万造林会社の杉山の中の道を抜けて「はじかみの峠」にのぼる。はじかみとは山椒のことらしい。この高度七〇〇㍍の峠道に八里石が立っていた。ここから山道を下って有枝川をわたり、東に二㌔登って高度六五〇㍍の色峠に達するが、その手前の杉林の道のわきに九里石が道に深くめり込んで立っている。
 ここから程野を経て、谷川に沿うて街道は東南に下り、やがて谷川と分れて「かしが峠」という小さな峠を東に越えると七鳥の集落と、屈曲した面河川の流れが眼下に展開する。街道は峠からゆるやかな勾配をもって七鳥に入り、畑と人家を縫うて十里石に出る。真下に県道が通っているが、里塚石のあたりは古びた常夜燈もあって昔の面彫を残している。街道は東光寺の前をぬけて県道へ下り、これを横切って面河川べりに出る。熊野神社の下手にかかる木の橋を渡り、対岸の山を東へ登って行くと高山に出る。高度五〇〇㍍で、来た道を振り返ると、まことに美しい眺めである。
 街道はここから山道を東南に二㌔、高度九〇〇㍍の立石と呼ぶ所に出る杉林の中に十一里石が立っている。立石はテレビ受信塔の下で、黒藤川から蓑川に越える道に面しており、ここに高石久次郎ら三名の頌徳碑が大正八年に建てられ正面に天下泰平と刻まれている。立石と呼ばれるのはこの碑のためであろう。この道は土佐街道と四つ辻をなしている。
 ここから振返ると西北一直線上に七鳥・程野・はじかみの峠・久万町が起伏する山のうねりに見えかくれする。まさしくここは土佐への最短距離という感が深い。さらに真東をさして九五〇㍍から一、〇〇〇㍍の山の尾根を踏んで猿楽にある十二里石に達するのであるが、この間は廃道となって久しい。現在は蓑川からか、ヨラキレからか、別の道から行くしかない。
 亀甲形にわだかまる、たたみ四〇畳敷以上もある巨石がある。これが猿楽石で、街道を距てた大師堂の前に十二里石がある。この最後の標石は一〇〇㍍ほど土佐寄りに立っていたのを、大師堂まで動かして来たのだと聞いた。ここから尾根は北に退いて、土佐境まで一八町(二㌔)の街道は草原の中腹を横がけに進む高度一、一〇〇㍍の平坦な道であるが、今は人の通らぬ茨の藪である。
 予土国境は標高一、二〇〇㍍、石の地蔵尊が二基、熊笹の中に埋れている。眼下に開ける土佐の山々は東に遠く幾重にもかさなりかさなって墨絵のように見える。ここからお大師様でにぎわったという水峠を越して池川に出る所は、雑誌深山と呼ばれる原始林で、苔むした巨木の中をくぐる昼なお暗い荒涼たる風景であったらしいが、今は開墾されている。