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美川村二十年誌

第一節 松山藩の支配

 秀吉の四国征伐で功のあった小早川隆景は河野氏が滅びたのち、天正一三年八月に伊予一国で三五万石を与えられた。その隆景が同一五年(一五八七)に筑前名島に転封になって、福島正則が東中予で一一万石を与えられて湯築城にはいり、南予では戸田勝隆が一〇万石を得て大洲地蔵ヵ嶽城に入った。
 このとき久万山の一部が戸田勝隆の所領に組み込まれることになった。戸田の九人衆と呼ばれた有力な家臣団が小田分で六、〇〇〇石を与えられたが、小田分は四、八五二石一斗しかなかったので不足分一、四一七石九斗を二名、父ノ川・露峰とさらに野尻から三三石を分割(下野尻と呼ぶ)して補ったのである。これが久万山四村が藩政時代を通じて大洲領となる基を作った。
 文禄四年(一五九五)福島正則は尾張国清洲に転封となって、そのあとへ小川祐忠が七万石で府中城、加藤嘉明が六万石で正木城に入り、また戸田勝隆病死後の南予へは藤堂高虎が七万石で板島城に入った。
 加藤嘉明は慶長五年(一六〇〇)の関ヵ原合戦の戦功によって一脈二一万石となり、松山城を築いて慶長八年(一六〇三)に入城した。加藤の松山在城は二〇余年におよび、寛永四年(一六二七)に会津四〇万石に転ずるのであるが、その間久万山は重臣佃十成の知行所となっていた。
 十成は久万山で圧政を行ったらしい。寛永三年(一六二六)二月に久万山庄屋らは大川村の土居三郎右衛門、日野浦村の船草次郎右衛門を代表として直接に加藤嘉明に支配者の交迭を願い出ている。その理由として年貢の過重取立てと、百姓を連日松山の屋敷に呼んで労役を行わせることを挙げている。この結果は十成から所領を取上げ、その子三郎兵衛に与えることになったので二人の庄屋は、ぜひ他の人にと押返し歎願したが、家老堀主水・足立新助から、このことを含んで圧政を行うようなことはさせぬという証文を貰って、ようやく引さがっている。翌年に加藤は会津に国替えとなって佃家も去ったから、佃氏の久万山支配は寛永四年で終った。
 加藤のあとは出羽国上山から蒲生忠知が二〇万石(近江国日野と合せて)で入ったが、その治世は短かく、寛永一一年(一六三四)に忠知が参勤交代の途上、京都で死去したため蒲生家は断絶した。
 寛永一二年(一六三五)に伊勢国桑名から松平定行が一五万石で松山城主として入国する。定行の父定勝は家康と同じ母から生れた弟であるから、将軍家の親藩である。定行の弟の定房も三万五千石で兄を援助する意味をもって今治に入った。伊予八藩名、藩祖・石高・入国年を記すと次のようである。
 松 山 松平定行  一五万石 寛永一二年(一六三五)
 宇和島 伊達秀宗  一〇万石 慶長一九年(一六一四)
 大 洲 加藤貞泰   六万石 元和 三年(一六一七)
 今 治 松平定房 三・五万石 寛永一二年(一六三五)
 西 条 松平頼純   三万石 寛文一一年(一六七一)
 吉 田 伊達宗純   三万石 明暦三 年(一六五七)
 新 谷 加藤直泰   一万石 元和 九年(一六二三)
 小 松 一柳直頼   一万石 寛永一三年(一六三六)
四国を見渡すと阿波国が一藩、土佐国が一藩、讃岐国が二藩に対して伊予国八藩は分割されすぎている。おまけに川之江・別子銅山その他に天領と呼ばれる幕府直轄地があった。
 もっとも伊予国も本来は四藩ともいうべき成立ちであった。松山と今治、宇和島と吉田、大洲と新谷、西条と小松はいずれも本家分家の関係につながっている。松山と今治こそ兄弟協力すべく当初から二藩として出発していたものの、宇和島から吉田、大洲から新谷、西条から小松はいずれも弟に分治を願い出て成立したものである。ただ西条藩は寛永一三年(一六二六)、一柳直盛にはじまり、川之江も領内に含まれていた。二代直重が弟直頼に一万石を分けて小松藩を立てさせ、三代直興が役目不行届きの理由で寛文五年(一六六五)に取つぶされ、御三家の紀州藩の二男松平頼純が西条藩主となって、小松藩の一柳分家だけが幕末までつづいたわけである。
 江戸時代の大名は領地から収穫される一年間の籾の総高をもって何万石の大名というように呼ばれた。これをきめるのを検地といい、まずその土地の面積を測り日照・土壌・地形・湧水などの条件をみて上・中・下・下々の等級をきめ、一段につき上田は一石五斗とれる。中田は一石三斗とれるというようにきめた。畑の場合も米に換算して上畑は一石二斗、中畑は一石というようにきめた。したがって等級の石高に面積を掛けると、その地の収穫高がきまる。検地帳は一村ごとに集計されたが、その領地の収穫高一万石以上あるものを幕府から直接もらったのが大名である。
 松山藩一五万石の範囲は、
 温泉郡三五村 高二万一、八一五石九斗五升四合
 風早郡七八村 高一万六、一五二石五升 六合
 久米郡三一村 高一万五、七九〇石二斗五升七合
 野間郡二九村 商一万四、九一五石八斗三升八合
 和気郡二二村 高一万四、二四六石一斗二升六合
 桑村郡二六村 高一万三、〇二五石一斗八升七合
 浮穴郡四三村 高二万二、一二〇石三斗四升一合
 伊予郡一九村 鳥一万三、五七一石七斗 七合
 周敷郡二四村 高一万〇、二三〇石九升 八合
 越智郡二三村 高  八、一三二石四斗三升六合
で伊予国一四郡のうち一〇郡にわたり、うち温泉郡以下六郡は全域、浮穴郡以下四郡は他藩と分けている。
 松山領浮穴郡のうち久万山は俗に六千石の地と呼ばれた。その村名と石高を記したものとしては三代将軍家光の晩年に当る慶安元年(一六四八)の「伊予国知行高郷村数帳」が最も古い。これは京都大学から譲りうけて現在県立図書館に所蔵されている。最近に同図書館から研究者への便宜のため公刊されたので、久万山分について左に転載させていただく。(石高の表現は読みやすく書き改めた)
 一高五一五石八斗三升    東明神村
   田方 四三四石八斗五升一合 日損所
  内              林山有
   畠方  八〇石九斗七升九合 野山有
 一高三〇〇石一斗二升    西明神村
   田方 二七八石二斗二升   日損所
  内
   畠方  二一石九斗     野山有
 一高三〇〇石         入野村
   田方 二一一石九斗二升二合 日損所
  内
   出方  八八石七升八合   野山有
 一高二五〇石        町  村
   田方  一九八石六升六合  日損所
  内
   畠方  五一石九斗三升四合 野山有
 一高五二八石         菅生村
   田方 三七九石四斗八升   日損所  
  内              林山有
   畠方 一四八石五斗二升   野山有
 一高一九一石四斗七升     有枝村
   田方  一九石六斗三升   日損所
  内              柴山有
   畠方 一七一石八斗四升   野山有
 一高三〇一石一斗四升     大川村
   田方 一七〇石一斗七升   野山有
  内
   畠方 一三〇石九斗七升   柴山有
 一高二七九石五斗五升     黒岩村
   田方  二九石四斗一升   日損所
  内              野山有
   畠方 二五〇石一斗四升   川 有
 一高二四〇石三斗      日ノ浦村
   田方  二二石四斗     日損所
  内              野山有
   畠方 二一七石九斗     川 有
 一高二七〇石五斗七升    柳井川村
   田方  三一石五升     林山有
  内              野山有
   畠方 二三九石五斗二升   川 有
 一高二五九石二斗八升     西谷村
   田方   四石五斗     林山有
  内 
   畠方 二五四石七斗八升   野山有
 一高一四二石四斗四升     久主村
   田方  三三石八斗四升   日損所
  内              野山有
   畠方 一〇八石六斗     川 有
 一高二三〇石二斗八升九合  黒藤川村
   田方   一石八斗     林山有
  内          
   畠方 二二八石四斗八升五合 川 有
 一高 九三石七斗八升二合   沢渡村
   田方  一一石二斗     野山有
  内
   畠方  八二石五斗八升二合 川 有
 一高一〇〇石一斗三升   仕出ノ下村
   田方   七石五斗五升   野山有
  内
   畠方  九二石五斗八升   川 有
 一高二八四石四斗四升     七鳥村
   田方  六石三斗      柴山有
  内
   畠方 二七八石一斗四升   川 有
 一高三二二石五斗四升     東川村
   田方  三五石七斗     柴山有
  内
   畠方 二八六石八斗四升   野山有
 一高九〇八石         北番村
   田方 一九四石九斗三升   林山有
  内
   畠方七一三石七升      野山有
 一高七二三石三斗六升    畑ノ川村
   田方 五六七石四斗二升  林山少有
  内
   畠方 一五五石九斗四升   野山有
 一高二〇〇石三斗三升     野尻村
   田方 一一五石八斗九升八合 日損所
  内
   畠方  八四石四斗三升二合 野山有
 右之内
   一六七石     松平隠岐守分
    三三石三斗三升 加藤出羽守分
 右の松山領久万山分二〇ヵ村、石高合計六、四〇九石二斗四升一合となる。これを明治初年旧藩主久松定昭から松山県庁へ引ついだ二四ヵ村石高六、四二四石七斗七升九合と比較すると、四ヵ村一五石五斗三升八合の増となっているにすぎないから、まず藩政時代二三〇余年を通じて久万山は六千四百石余の地と見てよいであろう。
 藩政時代に現地で農民支配に当るのは郡奉行や代官であるが、彼等は村民の一人々々を支配するのではなく、村の年貢率をきめるのみで、その取立てにしても犯罪者の取締りにしても村全体の共同責任として、いちおうその自治にまかせてわずらわしい村の内部に立入ることを避けている。
 各村には村役人というものがある。その長が庄屋で、村を代表すると共に代官のさしずに従って村政に当った。庄屋以下の村役人は藩によって多少の違いがある。松山藩では庄屋を補佐する組頭や、郷筒とよぶ保安係などがあった。平常の事務は村役人が処理するが重要なことは百姓寄合いできめ、また近隣どうしで五人組を組織して、組内から犯罪者を出さぬよう、年貢を完納するよう戒め合わせている。
 また郡内の村々に共通する事がらを処理するため大庄屋とか改庄屋というものがあった。久万山は浮穴郡のうち山分として行政の一単位をなしていた。久万山役人づけというものを見ると代官一、元締一、手代四につづいて大庄屋二、大庄屋格二名、改庄屋一又は二名、また時には改庄屋・役人格というものもあった。格は見習いというところであろう。なお藩政時代を通じて三坂を越えた窪野村、久谷村が久万山分に入っていた。これは二村にとっては不便だったらしく、しばしば里分に編入することを願い出て、また一時的には里分に属したこともあった。これ全く奉行・代官などが久万山に登るとき休憩その他の便宜からであったと思われる。
 藩政の中心は何といっても年貢米の徴収にあった。支配者の農民観をしめす言葉として伝えられているものには厳しいものが多い。本多正信が二代将軍秀忠の問いに答えたものの中に、
 百姓は天下の根木なり、これを治むるに法あり、まず一人々々の田地 の境目をよく立て、一年の入用作物を見つもらせその余を年貢に収むべし、百姓の財は余らぬよう、不足なきように治むること道なり。
とあり、また「百姓は死なぬように生きぬようにと合点いたし、収納申しつくるよう」とか、「百姓とごまの油はしぼればしぼる程出る」などといった政治家もある。
 年貢の率は四公六民とふつうに言われて、収穫の十分の四を年貢として出すものであるが、時に五公五民、久万山あたり六公四民という例が多い。年貢率をきめるのに二つの方法があって、その年の作柄を調べて率をきめる検見と、定免といって過去数年間の収穫高の平均を見て豊凶にかかわらず一定の率とする場合があった。久万山では寛文七年から延宝元年(一六六七~七三)の七年間、元禄一〇年から享保一〇年(一六九七~一七二五)の二九年間は定免制であったが、前期は各村平均が六・二、後期六・六という高率になっている。しかし実態はよく判らない。窪野村などは前期一三、後期一三・九となっているが、これでは収穫高以上を取立てたように見えるが、実際は村高以上に時のたつに従って新田の開発が行われたり、また裏作の麦に対しては年貢を取らなかったりするのである。
 久万山の庄屋家には戦国時代の土豪から出たものが多い。久万・小田郷では大除城主大野家の一族または配下の支城主の子孫と称する者が多く、絶家を防ぐため庄屋どうしで養子縁組をして親戚関係を作っていた。
 ここに県立図書館所蔵の「久万山手鑑」によって八代将軍吉宗の晩年の寛保の頃(元年は一七四一)の各村庄屋名と、同図書館所蔵の「松山領里正鑑」によって明治五年六月九日、庄屋所廃止の時の村名・当主名を掲げておく。
   (寛保の頃)(明治五年)
  東明神村   新右衛門     船 田 信 衛
  西明神村   源兵衛      梅 木 源 平
  入 野 村   孫右衛門     山之内 誠一郎
  久万町村   次郎左衛門    鶴 原 五郎太
                 居村久万町村
  野 尻 村   次郎左衛門    鶴 原 五郎太
  菅 生 村   善左衛門     小 倉 高太郎
  有 枝 村   弥次右衛門    山 内 寅 吉
  大 川 村 五郎右衛門    土 居 通 昌
                 居村大川村
  上黒岩村   権之助      土 居 通 昌
                 居村日野浦村
  中黒岩村   次郎右衛門    船 田 清 平
  日野浦村   次郎右衛門    船 田 清 平
                 居村日野浦村
  沢 渡 村   次郎右衛門    船 田 清 平
  柳井川村   尾形清右衛門   土 居 五郎次
  西 谷 村   半蔵       鶴 原 右源太
  久 主 村   与次兵衛     梅 木 盛 久
  縮 川 村   重右衛門     梅 木 二 三
                 居村七鳥村
  仕 出 村   助四郎      船 田 左源治
  七 鳥 村   助四郎      船 田 左源治
  東 川 村   伝太夫      梅 木   伝
  大味川村  小倉平左衛門    菅   昌 喜
  抽 野 村   孫兵術      小 介 利 八
  直 瀬 村  小倉平左衛門    小 倉 宗 衛
                居村下畑野川村
 上畑野川村  土居喜兵衛     梅 木 盛 謙
 下畑野川村  土居喜兵衛     梅 木 盛 謙
これで見ると明治初年の久万山二四村の名は八代将軍吉宗(松山藩主六代定喬)の頃にはすでに出来ているし、寛保の頃は苗字を許された庄屋は尾形・小倉・土居に過ぎないが、他の庄屋は名乗りこそしないが、苗字は先祖代々持っており、それはだいたい明治五年の苗字であったと思われる。もっとも村によって庄屋の家柄の替ったものもあったようである。
 また久万山の戸数・人口・牛馬数については次のような数字が記されている。
 一古来よりの家数  三、〇三六軒
 一宗門人高    一九、〇六八人
   内 男     九、五六一人
     女     九、三七八人
    出家        三三人
    道心         八人
    禅門        一四人
    医師         六人
    社人        三三人
    山伏        一九人
    座頭        一一人
    瞽女         四人
    神子         二人
  一牛馬数     二、二四五疋
   内 馬     一、六〇七疋
     牛       六三八疋
 なお久万山二四村を三大別して口坂・下坂・北坂と呼びならしていたようである。坂をまた番とも書いた。その場合、口坂とは東明神・西明神・入野・久万・菅生・上野尻の六村、下坂とは有枝・大川・上黒岩・中黒岩・日野浦・沢渡・柳井川・西谷・久主・黒藤川の一〇村、北坂とは大味川・杣野・直瀬・上畑野川・下畑野川・仕出・七鳥・東川の八村を指していた。さきに挙げた慶安元年の郷村帳では北番村とあって大味川・杣野・直瀬の三村名はまだ現れていない。