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美川村二十年誌

第二節 古代の道

 三坂の険があるために交通不便な久万山は「陸の孤島」とも呼ばれたが、藩政時代にはどうでも松山城下との間に用務が多かったので往来がさかんであった。それだけでなく、ここは松山、高知を結ぶ最短距離の地であったので土佐街道が通じ、久万町はその中間の宿場町として栄えたわけであった。
 だがそれは近世の話で、古代にここに主要道路が通じていたかどうかについては疑問が多い。大化改新(六四五)による中央集権の確立にともなって、都を中心に諸国の国府(今の県庁)を結ぶ官道がつくられた。官道とは役人の公用旅行のために駅家・駅馬を備えた主要道路のことである。
 伊予国の国府のあった所は現在の今治市内の予讃線富田駅付近と考えられている。讃岐国から伊予国に入って国府に達する官道には大岡・山背・近井・周敷・越智の五駅があったが、養老二年(七一八)五月七日土佐国から「官道が伊予国を通って土佐に入っているので道のり遠く、山谷けわしく不便であるから阿波国を通る道にかえてもらいたい」と願い出て許可されている。また「行基図」という日本の古図を見ると、浮穴郡の山地から仁淀川に沿うて土佐国に入る道があったようにも見える。また松木という地名はうまつきという言葉のつまったもので、馬次、つまり古代の駅をさすものであるという意見がある。
 そのために、養老二年までは、伊予国府から道後平野に出て三坂を越えて土佐に入る官道が通じていたので、柳谷村の松木はその駅の名残であると説く人がある。
 しかし「行基図」というのは全国の道を一枚の紙に書いた概略図で、四国あたりは全くの一筆がきで頼りになるものではない。また松木という地名はすべて「うまつぎ」から転じたものとばかりは言えないし、道遠く山谷けわしいというのは久万山道とばかり限らない。今から一、三〇〇年も昔の人の住まぬこの地方をわざわざ廻り道して土佐国に出たとは考えられない。恐らく養老二年までの官道は山背駅(宇摩郡新宮村馬立)から土佐国府に通じていたものであろう。これは江戸時代の土佐藩主山内侯の参勤交代の道であった。都からの距離を考えるとき、当然この道を使っていたに違いない。ここにも「腹庖丁の険」などのけわしい難所があって容易な道ではなかったので、養老二年に願い出て阿波国から南の海岸沿いに土佐に来る道に改められたものと思われる。