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美川村二十年誌

第二節 上黒岩の岩陰遺跡

 昭和三六年に上黒岩で、繩文早期の人類の住居跡が発見せられて人々を驚かせた。日本の考古学の書物に「愛媛県上浮穴郡美川村上黒岩」という地名の記されてないものはないほどに、ここは有名になって来た。
 地下五㍍、第九層といわれる最も古い住居跡にあった木炭片は、アメリカのミシガン大学の炭素放射能判定で、今から一万二、〇〇〇年前のものと知らされた。
 いったい、われわれ人類の祖先が地球上に現れたのは五万年前といわれている。その遺跡は南ヨーロッパの洞窟の中に見られ、打製石器を使って鳥獣魚貝などをとって生活していたらしい。このような時代は非常に長くつづいたので旧石器時代と呼んでいるが、今から一万年くらい前になると、食物貯蔵などの必要から土器をつくるようになって来た。日本で最初につくられた土器には繩目のもようがつけられているので、これを繩文土器と呼んでいる。人類が土器を使用するようになると新石器時代と呼ぶので、日本ではこの時代になって人間が住みはじめたと考えられ、「日本に旧石器時代なし」と、久しい間、言われて来た。
 それが昭和二四年に群馬県岩宿の赤土層の中から土器を持たない石器だけが発見されてから、日本にも土器のない古い時代のあったことが考えられるようになった。しかしまだはっきり旧石器時代とも言い切れないので、「先土器時代」と呼んでいる。
 新石器時代になって繩文土器が使われた時代は長くて、何千年もつづく。同じ繩文土器といってもしだいに変っていくので、これを繩文早期、繩文前期、繩文中期、繩文後期、繩文晩期の五期に分けている。繩文晩期のあとには弥生土器の時代がつづくので、この繩文土器の終りは今から二、三〇〇年くらい前のことと考えられている。
 日本はごく古い時代はアジア大陸の一部であったが、今から一万年くらい前に海面が高まって朝鮮と九州の間が切れて、今日のような島国になったという。繩文時代はちょうどそのころからはじまると考えられていた。
 上黒岩の第九層からは外国の旧石器時代末期に槍先に使われた尖頭石器が出ている。だからこれは先土器時代の遺跡かと思われるが、同じ九層から繩文早期の隆起線文土器も出ているので、やはり繩文早期の辿跡であることは疑いない。先土器時代から新石器時代に移りかわっていく時期の遺跡といえよう。ミシガン大学測定の一万二、〇〇〇年前を信ずるなら、日本の繩文時代は今まで考えていたよりも、ずっと早く始まっていたことになる。したがって上黒岩遺跡は、繩文早期というよりもも一つ古い「繩文草創期」の遺跡とでも呼ぶべきものである。
 しかし考えるべきことは、この岩陰遺跡を残した人間は現在の久万山人につながるものではない、ということである。繩文時代につづく弥生時代には人間の生活が進んで、稲作を行なうようになる。水田耕作が始るようになると、このような山地は見捨てられて、人々は平地へ移動して行く。
 歴史時代は平地からはじまってくる。そしてこの久万山の地は久しく人の住まぬ土地として忘れ去られる。このような久万山に人々が改めて住みつくようになったのは、平地の人々の増加によって、しだいに山間地へまで開拓が進んだからであろう。