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美川村二十年誌

三、民間医療施設(開業医)

 民間医療施設については明治二九年以来幾度かの更迭があり、その制度上においても改廃の推移があったが、昭和三〇年以降、美川村にて医療活動に従事した開業医は次のとおりである。
  片岡医院
 片岡賀女子医師は昭和六年、東京帝国女子医専(現東邦医大)卒業、東京の病院で研究勤務していたが、昭和八年義父(片岡金義医師、旧仕七川村で四〇年間開業)の望みで帰郷し、同年九月に旧弘形村大字上黒岩で内科・小児科・婦人科を開業した。昭和二二年一〇月、義父老衰のため、仕七川に帰ってその後をつぎ、以来四一年間地域住民健康のために尽瘁している。
 帰村当時には、交通不便な地域内を徒歩で昼夜を分たず、雨風もいとわず往診した。時には駄馬の背を借りることあり、「馬の先生」と子供達に呼ばれたりした。当時はお産も自宅分娩が多く、医師を呼ぶというのは余程の重症であったが、連絡を受けると早速かけつけ、医師即助産婦として産湯まで行なった。「重患の癒えて働く姿を見る喜びは、医者冥利につきる」と村民に親しんだ。戦後の医薬・衛生材料の不足時にも診療に努めて村民に安心感を与えた。
 合併以後も村の予防接種担当医・母子健康センター運営委員、また学校医として本村医療福祉のために大きく貢献し、現在、日本女医会県支部理事・郡医師会理事をつとめている。
  佐藤医院
 佐藤浩医師は昭和九年大阪帝国大学医学部医学科を卒業後、同大学附属病院・高知逓信診療所等に勤務し、昭和一七年高知県吾川郡池川町で開業後、昭和二五年一月、美川村大字七鳥に移り内科・産婦人科を開業した。
 当時の交通至難な悪条件のもとで医療活動にあたり、昼夜を分たず患者の要請に応じ往診するなど不眠不休の診療を続け、特に経済的観念を度外視し、「医は仁術」との信念に徹し住民福祉優先の医療活動に務めた。村の衛生行政面でも年間を通じて行なう各種予防接種、検診にも多忙な開業医の時間をさき、積極的な協力援助を惜しまず、予防思想の普及・啓蒙に努め、健康管理を図った。
 昭和四一年母子健康センター設置以来、その嘱託医として分娩に立会い助産婦の指導と適切な処置に当り、妊産婦・乳幼児をまもり身心の安全をはかるなど村民の信望を集め、今なお郡医師会長・郡救急対策協議会長など重責をもち活躍している。
  伊藤医院
 伊藤蔦子医師は大正九年、旧弘形村大字上黒岩が生んだ女医である。昭和一六年帝国女子医学薬学専門学校医学部を卒業後、慶応堂病院で面河村出身の医学博士八木胤幸医師のもとで指導を受け、一八年七月松山に帰り赤十字病院に勤務するかたわら北条倉敷紡績会社医局を兼務し二一年七月、現在の柳谷村大字中津で開業した。
 当時、弘形村大字有枝には吉村源蔵医師が長期にわたり開業していたが、三〇年一月死亡し無医地区となり、医療に対する住民の不安が深刻化してきたので有志が伊藤医師の帰村説得に乗り出したのであった。三二年一月、地域の要望に応えて念願の伊藤医院が開業した。その後、へき地の患者の大きな悩みであった入院施設のある医院を新築し医療活動に努めた。地元出身ということで住民とのつながりも深く、地域の保健医療の指導者として活躍するいっぽう、村の衛生行政面でも多忙な時間をさき予防接種担当医として村内各所を巡回、また学校医として献身的に努めた。
 四七年一月から面河村診療所の担当医として勤務するかたわら、木曜日の午後と日曜日には芙川村で診療を行なうなど休日なしの診療を続けている。「身体を養うのと等しく心を養うことが必要である。心の糧を村民が一体となって考える時にこそ、美しい美川村が生れるであろう」と言う。広域にわたって住民に親しまれ、厚い信望を得て現在医療活動に専念している。