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美川村二十年誌

第二章 学校教育

 終戦後の教育界は混乱したが、昭和二二年四月一日に学校教育法が施行せられ、小学校六ヵ年と中学校三ヵ年とが義務教育となった。
 従来の学制では、国民学校初等科に続く学校として中学校・高等女学校・実業学校等を含む中等学校と、国民学校高等科および青年学校とが設けられていたのを改革して、その単一化がはかられて、六・三・三・四制の学校系統が確立された。新しい学制による小中学校が創設せられ、同時に国民学校令・青年学校令等は廃止せられた。
 昭和三〇年三月三一日、中津村の一部と弘形村・仕七川村の三力村合併により、小学校六校(分校二校)、中学校三校で発足した。そして仕七川第一小学校が仕七川小学校に、仕七川第二小学校が東川小学校に、弘形第一小学校が美川西小学校に、弘形第二小学校が美川南小学校に、また弘形中学校が美川中央中学校と、校名が変更された。
 合併時の小学校の学級数は四六学級で児童数一三六八名、職員五五名、中学校は学級数一八学級、生徒数七〇八名、職員二九名であった。
 その後、過疎化による児童・生徒数の減少は著しく、昭和四〇年には小学校三九学級、児童数一〇四三名、中学校一五学級、生徒数五七四名と年ごとに減少の一途をたどりつつある。そのため四九年一月から施設設備小委員会をはじめ、教育委員会・文教委員会・村議会議員と教育委員合同による協議会を数回にわたり開催の結果、教育効果と児童・生徒の学力向上の為、学校を統合し、施設設備の充実が急務であるとの結論に達した。四九年三月三日、美川中央集会所、大会議室で開催の村民懇談会で次のような統合に関する村教育委員会の基本方針が発表された。すなわち中学校は美川中央中学校一校とする。黒藤川中学校は出来る限り早い時期に、仕七川中学校については、生徒数が最も減少する五二年度を目途として統合する。また小学校については仕七川小学校に東川小学校を併せる。また美川南と美川西を併せる。二箆小学校は道路事情などの為、当分の間、存置するというものであった。
 ついで、五月に各小学校単位の六会場で「教育懇談会」が開催され、学校教育の現状や問題点と長期展望に立った施設の整備計画の説明と、率直な村民との意見交換がなされた。
 前表は住民登録簿を資料として作成した村内小中学校の昭和四八年以降六年間ないし一二年間の児童生徒数の推定である。

昭和48~54年度の小学校児童数の推移(住民登録簿による)

昭和48~54年度の小学校児童数の推移(住民登録簿による)


昭和48~60年度の中学生生徒数の推移(住民登録簿による)

昭和48~60年度の中学生生徒数の推移(住民登録簿による)