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美川村二十年誌

第一節 電話の普及

 敗戦後行政の複雑多様化に伴い旧弘形村内では電話の必要性を叫ぶ声が高まり、従来は役場・法務局御三戸登記所・伊予鉄御三戸配電所・弘形郵便局と、各四㌔以内に四ヶ所くらい、その外は土木請負業者、或いは商店などが加入しておるのみで、学校・農協・森林組合・神社・寺院・医師にも引き込みがないので、緊急の火災その他災害の際は、昔からの慣習で警鐘通報、戦時中の灯火管制もそれで村内に連絡するという、まことに旧態依然たるものであった。そこで村議会は条例を設定して、松山市大洋電気株式会社に委嘱して当局の許可も得て、村内四五ヶ所へ引き入れたのである。委嘱した会社の社長は元海軍通信兵であり、学理技術共に優秀なのと、責任感の強い人で終始誠意をもって監督施行して工事を進めてくれた。完成後も本人はもとより、社員を幾度か派遣して見廻って貰った。ただ経費の都合で、銅線ではあるが単線であったため、感度は最上とは言えなかった。しかしこれで村民との耳の連絡がとれて、民主化の第一歩を踏みだした感がした。以来国家経済も急速に伸長し、久万町へ電報電話局が出来、順次加入者が拡大されたが、最初は一ヶ村に二、三ヶ所位の加入であった。その様な状況であるから合併後も、昭和三三年ころまで仕七川支所、中津支所まで延長して使用されたが、しかしその維持管理は頭痛の種であった。村で交換手一名は常時必要とされ、一度台風が襲来すれば障害が続出し、復旧には数ヶ月と莫大な復旧費を要し、僻地の通信連絡は途絶え、一年中で完全に通話できるのはわずかであった。この不便さを解消する策として農村公衆電話の誘致に努め、村内無電話部落の解消を図ったのである。
 昭和三五年末に於いて各部落に公衆電話並びに一般電話が架設された結果、昭和一八年から使用された村内電話は、昭和三六年二月に全村廃止ときめて、すべて撤去した。
 その後、通信事業は目ざましい発達を遂げた。経済の高度成長と生活の高度化により情報化時代を迎える。典型的な過疎地域の美川村では、足と目と耳の確保は合併当初からの悲願とも言えたが、昭和四五年法律第三一号過疎地域対策緊急措置法が制定され、美川村に於いても振興五ヶ年計画の策定により、過疎債による通信施設整備事業として、地域集団電話が計画された。同年六月より電々公社が数度に亘り現地調査を行ない、架設可能となったが、過疎債の借入は不能となったので、同四六年二月緊急議員協議会及び組長会を開催し、趣旨説明並びに過疎債に代る村費支出の基本方針が決まり、昭和四六年度全戸加入促進を目標に地域集団電話の架設事業に着手した。住民に限り加入料三〇〇円、工事費一万円の補助負担を決定し、補助金総額八〇二万一、七〇〇円を支出し、住民の負担は軽減されて八〇七台、総工事費一億三、五〇〇万円で、既設加入を合すと全戸数の八二%の高普及率となり、昭和四七年三月一五日午前一一時間通した。開通祝賀会は松友副知事、愛媛電気通信部長ら多数の来賓と、村内関係者によって盛大に挙行され、僻地ヨラキレの二宮敏雄との記念通話を行なった。開通を喜ぶ本人の声が会場に流れて印象的であった。
 電話の高度普及によって、村内ほとんどの家庭に電話がつき便利になったが、更に都会なみの合理化(ダイヤル化)を目途に電気通信部へ猛陳情を続けた結果、美川局・仕七川局管内は昭和四八年一一月三〇日午後三時を期してダイヤル式電話に切換えられた。残る柳谷局管内も昭和四九年一一月末にはダイヤル化された。本村の電話普及度は県下でも高い方で、通信施設は完全に整備されたものである。