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美川村二十年誌

二、県 道

 さて橋梁架け替え等によって不要となった道路、及び橋梁の河口・尾貝・久主ノ下り・御三戸・成川・古床の五ヶ所については、完成後に村道として認定されて現在に至っている。美川村で最も古い永久橋である有枝橋については、上部橘面が木材であったもので、村道認定前に県がコンクリート橋面に改築し、高欄もこのとき改造された。
 国道三三号線の改良にともない、その支線となる県道・村道の改良舗装が当然の課題となって来た。昭和四一年には石鎚スカイラインの計画が立てられた。この工事着工と併せて御三戸から面河村関門に至る県道池川~久万線と、この計画によって起点を西条に変更改名された西条~久万線(もとは久万~面河線)の改良が必要となった・まず御三戸の国道分岐点から着工、昭和四〇年から四三年までに竜宮政道まで事業費二,一〇〇万円をもって二車線に改良された。これと前後して西古味・東古味の通りが改良され、横山付近ほか局部的に現在も拡張工事が続けられている。近年の道路工事の悩みとするものに、用地買収が挙げられるようになった。昔はあらゆる工事の用地は、ほとんど寄付によったので、経済的にも事務的にも比較的苦労はしなかったが、国道改良の用地買収を機に、すべて用地は買収することとなった。土地の所有形態、或は買収単価など個々において条件は異るが、買収費の増高はもとより買収作業に多くの時間を要し、事業担当者の苦労はなみたいていでない。用地買収の作業が終れば事業は七〇ないし八〇%を完了した感じがする、とさえ言われるまでになった。昭和三五年頃の国道用地買収費は宅地で三・三平方㍍当り五,〇〇〇円から一万二,〇〇〇円、山林で一〇㌃当り一万五,〇〇〇円から二万五,〇〇〇円、昭和四〇年頃には宅地三万円から五万円、山林三万円から五万円であったが、その後、年々単価は上昇している。
 県道改良で主なものは美川~松山線及び美川~川内線(黒藤川分)と前記の西条~久万線であるが、その他の道路にあっても自動車の急激な増加による交通量の増加と、交通安全対策の重視などにより改良の必要に迫られて局部的に工事が行われ、その量および事業費が増大している。
 美川~松山線は大正・昭和と延長され、一時中断されていたが昭和三五年から工事が再開された。以来一〇年を経て四五年に久万町中野村と結ばれ、国道三三号線の迂回路ともなる道路が完成した途中の有枝川に架る上谷橋は昭和三九年に旧中津大橋の古材で架設されたが四八年に永久橋となった。この道路の完通には新谷村長はもとより、前村長の土居通栄、また日野久万町長をはじめ、久万町中野村の秋本富栄・梶川直栄など、多くの人々の努力があった。思えば大正七年に起点の河口に着工以来、目的の久万町への完通まで、幾多の苦労と歳月を要したのであった。昭和三五年に工事が再開され、昭和四五年の完成に至る迄には三,六五〇万三,〇〇〇円が投入された。この工区は有枝の通称、風呂ヶ谷から村境までであった。昭和四五年一二月一五日当時の道路課長外県係官や地元県会議員、久万・美川両町村長を始め関係者多数出席のもとに完成を祝って現地に於いて落成式を挙行した。
 県道美川~川内線の改良は旧中津村当時からの懸案であった。たびたびその機運がありながら実現できなかったが、二箆へのバス乗入れ運動が展開されたことが動機となった。当初は古床から二箆へのバス乗入を目標に、地元関係者と村が一体となって道路改良について県当局へ強力に運動を行なった。その結果とりあえず悪い部分から局部的に改良工事に着工することとなり、必要とする用地は地元促進委員の献身的努力によって、二箆地区についてはすべて寄付されることになった。
 こうして昭和三八年から昭和四二年のバス運転開始までには実に六三箇所、延べ二,三二四㍍を改良し、その事業費は二,〇七〇万四千円を要した。このほか地元民の汗の奉仕により簡単な切取り工事および待避所の設置などが行なわれ、その出役数は延ベ一,一八〇人にのぼり、村からは砂利・火薬代など必要資材費として八九万九千円を投入した。四五年からは、さらに長崎までのバス乗入れを目標に二箆~長崎間に工事をのばし、昭和四九年三月までに、その事業費四,六七四万九千円となっている。
 県道美川嶺公園線ははじめ林道大谷線としてスキー場までが開設され、先に認定されていた大谷部落までの六,三○○㍍の村道を含めて、昭和四七年三月三一日に県道に昇格された。その延長は一一,一三八㌔となった。現在もなおスキー場、或は大川嶺自然公園への主要路線として改良工事が続けられている。
 あらゆる事業のうち、国営の事業は村費負担は必要でないが、県営事業にあっては国費があるものは小業費の一%から三%、県単独費の場合は五%から三〇%を村費で負担している。これは昭和三四年に制定された県の土木建設事業費負担金条例に基づいて負担しているものである。昭和四四年に県条例の改正によって県が国費の補助を受けて行う事業には村費負担はいらなくなり、また四七年にも条例が改正されて負担率は五%から最高一〇%までに軽減された。
 県道の橋梁の大きいものは美川村内で四本ある。昭和三七年三月の仕七川橋の完成に続いて中津大橋・大川橋・上谷橋と四九年三月までに大小合せて一〇本の橋梁が木橋から永久橋へと姿を変えていった。
 なかでも旧仕七川橋は吊橋であったが、しだいに交通量がふえ、諸車は大型化するため維持修繕を毎年行わなくてはならなかった。そこで改築の計画がなされたが、吊橋はそのままにして上流側に併行に架けることになり、両岸の屋家八戸程が移転、あるいは改造を必要とした。
 村内にある県道には境野・屯宮・横山下と隨道が三本あるが、そのうち二本については既に改築が完了している。
 県境にある境野隧道は昭和三九年三月に完成し、御三戸の竜宮隧道は昭和四六年三月に二車線で両側に歩道を併設し完成した。この竜宮隧道は工事中通行の制限が不可能であるため、両側から河原に取付道路と川の部分に仮設道路を造って工事中の諸車の迂回路に使用した。
 県道舗装事業は国道に続いて仕七川橋前後の両古味から着工になり、国道改良により付替えになった旧国道の河口から成川までの五箇所が舗装された。おおむね本格的な事業が始ったのは昭和四〇年の東古味より横山に向っての舗装からであり、東川・水押・長瀬・竹谷・黒藤川・大川・有枝等の家屋連接地区から逐次舗装され、昭和四九年三月現在では水押から村境、黒藤川から二箆の間、木地から長崎、大川上組から大栩まで、有枝本村から久万町境までの間などを残し主要なところの大半は舗装道となった。昭和四九年三月現在の県道舗装率は四五%となっている。

県道の現況(昭49、3、31)

県道の現況(昭49、3、31)


主な工事概要

主な工事概要