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美川村二十年誌

一、国 道

 美川村誕生以来、道路等の規模・内容整備の向上はめざましいものである。道路を語るには先ず国道三三号線を忘れてはなるまい。当時の国道は名称を二三号線と称していたが三〇年以降にその名も国道三三号線と改められた。その他の路線についても次々と名称変更があったのでここで説明しておくことにしたい。先ず県道では主要地方道である久万~面河線が石鎚スカイラインの計画によって西条を起点とし西条~久万線と変り、河口~横河原線が美川~松山線、下根~小田線が美川~小田線、弘形~横河原停車場線が美川~川内線、久万~池川線が池川~久万線と、それぞれ改名された。
 さて国道改良の発端は大字有枝の有枝橋改築から始められた。その架け替えの位置は現在の有枝橋川下約一〇〇㍍の位置に決定された。このときから公共道路等の用地が本格的に買収されるようになり、所有権移転の登記まで行われるようになった。これまで国道の維持・管理は県に於いて行っていたが、今回の一大改良工事から国営で施行されることとなった。
   国道の改良事業の概要
  国道総延長  120,100m(美川村内延長13.310m) 
  県内橋延長 919m 24本(美川村内延長185.7m 3本)
  県内トンネル延長 891m 3本(美川村内トンネル 0)
 この橋梁改築工事は松山の大手請負業者の「有光組」の手によって着工され、近代化した土木機械のブルドーザー、或はショベル等のエンジンの音が終日谷間にこだまし、地方では始めての大工事であった。地域の住民はこの状況を見て、昔のモツコ・ツルハシの原始的な工事と比較し驚歎したものであった。昭和三五年二月に前後の取付道路を含めて完成し、現地において落成式及び記念祝賀会が挙行され、その名も「河口橋」と命名された。国道三三号線の改良工事はここを最初として、村内至るところから工区を分けて、建設の声があがった。
 この国道の起点は高知市で、終点は松山市の市役所前である。愛媛県側は昭和三四年八月に着工され、昭和四一年に改良工事が完成した。
 この改良工事で美川村地内で最も単価の大きかったのは、日野浦・桧ヶ谷の一㍍当り四〇万円であった。
 舗装工事については改良済みの所から遂次着工し、昭和三九年から四二年までに完成した。
 村内の国道には主な橋梁が五本あるが、なかでも御三戸に架けられた「美川大橋」は郡内で最も規模が大きく、架橋位置の決定についても関係者は苦労したものである。旧国道沿線の住民としては現在の御三戸橋から上流の現在の久万農協御三戸支所前の位置とするか、或は昔の国道であった堤・御三戸間の道路を利用して、久主ノ下りから堤への架橋を、それぞれ希望した。建設省としては御三戸・堤のいずれの部落も地すべり地帯で、地盤が軟弱なため技術的に不適当であり、また沿線の家屋の移転等も考慮し難色を示した。種々検討された結果、現在の位置に決定し、左岸の橋台付近にあった水口・岡本の二軒を移転させて美川大橋の完成を見たのである。
 なお国道改良工事完成の陰に三坂・落出・古床などの各工区で作業中の事故で尊い人命が奪われたことを忘れてはなるまい。
 現在、高知県境付近の大渡ダム建設にょり水没する区間の付替工事を除いては全線完了し、近代的な道路に改良された。沿線住民にとって悩みの種であった雨天時の水溜り、或は旱天時の砂ぼこりの禍いから解放されることとなったが、諸車の交通量はしだいに増加し、多発する交通事故並びに交通公害に新たに心をいためる事となって来た。

国道に架る美川地内の主な橋梁

国道に架る美川地内の主な橋梁