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美川村二十年誌

第一節 商工業の概要

 美川村は山地が多く、平地に乏しいという自然条件と住民の点在性とがあいまって、商工業方面においては華々しい繁栄の歴史を作らなかったのであるが、終戦をむかえ戦時統制が撤廃されたころから生活必需品を中心とする消費材需要の盛んななかで、自由奔放な活動期をむかえた。
 すなわち、アメリカの復興援助資金による原材料の輸入がはじまり、対日援助政策の強化された朝鮮動乱後の調整期には、本村特産の木材が脚光を浴び、木材業の非常な繁栄をみた。それに並んで建設業・砂利採取業・農産物仲買業も活気にみち、今日では影をうすめた木炭製造業・精米業・馬喰業・鍛冶業も安定した経営状態をみせていた。
 とは言うものの全く一本調子に繁栄したのではなく、そうした状態までにはインフレーションあり、デフレ政策がとられた時期もあった。しかし、日本経済全体としては輸出の好調があり、農産物の豊作も幸いして、それらの反動期を克服し美川村誕生の三〇年の頃には、当地域では戦後最良の年をむかえていた。
 当時と最近の業種別事業所数は別表のとおりであるが、これらの事業所はいずれもそのほとんどが近代的経営意識の乏しい生産性の低い零細な個人経営であった。こうした面を小売業でみると店舗の広さ一〇坪未満の店舗が七〇%を占めまた六〇%の小売業者は兼業という状態であった。
 戦後新らしい技術開発と、新らしい産業の台頭によって大量生産・大量販売の時代を迎え、昭和三〇年頃をさかいとして日本経済は急速な発展段階に入ったのであったがこのような本村商工業者はとうてい歩調を合せることはできなかった。いっぽう、産業構造も一次産業から二次産業へ移行し、このため若い労働人口は阪神方而に移動を始めることになったが、残念ながらそれをくいとめ得る産業を持たない本村としては傍観する外はなく、友は友を呼び、子は親を呼んで商工業発展の重要な要素である人口は過疎に転じて行った。
 また道路交通網の整備と自動車の増加は時間距離を縮め、村外よりの顧客は二泊は一泊となり、一泊は日帰りとなり、村内の闘客は村外指向が現われ、さらに行商人の増加と農協の目覚しい進出により、大きな打撃を受ける事となった。


業種別事業所数

業種別事業所数