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美川村二十年誌

三、営農指導

 水 稲  本村の基幹作物である水稲も、作れば売れる時代から生産調整を境に、農民の生産意欲は低下し、別表の如く昭和四四年度の政府買入数量、九、二五二俵(六〇㌔入)、販売代金七、五八二万九、三九二円を最高に、漸次買入れ数量が減り、現在は、六、〇〇〇俵前後になっている。栽培技術も、除草剤の普及、粒剤による病害虫防除、バインダーの導入等、省力化が普及して来たが、四七年度よりは田植が、従来の手作業から機械植に移行しつつあり、四八年には約二〇㌶であったが、更に今後人手不足と田植人口の老令化等により、機械化による田植風景が多く見られるであろう。
 養 蚕  昭和三三年、飼育農家は三戸であったが、葉タバコと共に、村の主幹作物に伸ばすため、村と農協が主体となり、昭和三九年、村内を葉タバコ、養蚕の相関関係、改善をも加味し、部落懇談会を開催、有利性を説き、急速なる増反に成功。今後数年を出ずして水稲を上廻る販売代金になるであろうと大きな希望をつなぐに至った。
 然し四七年度頃より、他作物同様、出稼ぎ等の原因で、養蚕農家の減少が目立ち始め、新規栽培農家の出現がないことが悩みとなっている。
 繭価格は昭和四七年の春は、二、四〇〇円台に達し、繭ブームに沸いたが、本年は平年価格に落ち着いた。
 今後は、土作りを中心とした生産量の増加と、上簇時の労力節減による生産性の向上を計ると共に、最低保障の安定有利性を生かし、団地化を強力に推進、主幹作物としての確固たる基盤作りが必要である。
 葉タバコ  山間高冷地に於ける最も土地生産性の高い作物として導入された葉タバコも農外収入への依存度が高まるにつれ、収益性、労働力の老齢化等により、昭和四〇年を最高に栽培面積は減少化が続いた。
 然し、公社買入単価の引上げにより、総販売代金は、他の作物を押えトップにあり、更に昭和四八年度も二〇%アップが予想され、農家の生産意欲の回復に努めている。
 畜 産  労働生産性の低い畜産(和牛)は、他の農作物に比べ、その減少速度も早く、和牛のいない部落、又は二乃至三頭飼育程度の部落も出来、淋しい現象が続いた。飼育頭数の減少で、黒藤川・仕七川・御三戸の三ヶ所で盛大に開催された和牛品評会も、御三戸一ヶ所に合併し、品評会と併せて実施されている肉牛販売も、四五年からセリ売りによる販売となり、その後毎年一〇月二六日に開かれている。
 昭和三六年度から、肉牛の預託事業を始め、経済連を通じ肉牛の出荷を実施した。
 年間肉牛の取扱高は、一五〇頭、預託頭数一二〇頭が最高であった。
 昭和四四年度、家畜導入事業により、雌牛六〇頭を導入、四六年、四八年に各々二八頭導入。和牛生産地域として、肉牛肥育と共に、適地適作の原理に従って畜産の振興を計画実施している。久万農協合併後は全地域を網羅した和牛生産地帯としての目標を掲げ、農協一丸となって、推進する事に決定した。
  年次別     飼養農家数   飼養頭数  
   35      632戸   680頭 
   40      428    469
   45      288    453
   48      213    321
 トマト  久万農協合併を機会に、現在の農作物のなかで最高の収益性を誇るトマト栽培も、昭和四九年、五戸の農家が取り組み、今後、全村的に普及の見通しである。昭和四八年度久万管内平均一〇㌃当り生産額は八〇万円である。昭和四九年度、トマト栽培面積は久万農協管内で一六㌶である。
 茶  茶は本村の適作である。茶の歴史は古いようであるが、戦後急激な植林化や収入を得るまでにかなり長期間を要す等の理由により低迷していたが、昭和四五年、総工費一、三〇〇万円を投じ製茶工場を建設、この年試連転、翌年より本格的に操業を開始した。
 茶工場の建設は生産農家の夢であり、本村の茶業振興の基礎となっている。
 昭和四七年の実績は作付面積三〇㌶、茶工場受入生葉三一、三〇〇キロ(内加工九、七〇〇㌔販売二一、六〇〇㌔)、製品販売高五〇〇万円である。
 ナメコ  ナメコも昭和四九年より、村内八戸の農家で、トロ箱三、〇〇〇箱の生産を手がけ、冬期の現金収入を得る事により、年間を通じ、農業に専念出来る体制作りの一ケースとして、期待する作物である。
 水フキ  収穫期を除き、比較的労力が少なく、水田・普通畑を問わず栽培可能で、最低保障の有利性を生かし、農協も積極的に取り組む方針で、四八年の秋、三㌶に植え付け、翌年の七月出荷に期待している。
 みつまた  昔から本村の最大の特産品であり、現金収入の源として、村内の何処へ行っても見られ、親しまれたみつまたも、昭和三三年頃は、美川農協より紙幣原料として印刷局へ、六万㌔納められたのが最盛期であった。
 その当時、市販に廻るものが、約三万〇、〇五〇㌔あって、みつまたが農協の販売事業で占める割合は大きかった。
 その後、昭和四〇年度の局納は二万五千㌔、昭和四七年度は、二千㌔、四八年度は零と淋しいものになってしまった。
 然し、市販価格は昭和四九年に入って、白皮三七・五㌔当り五万円を越す史上最高の高値を記録した。
 黄蜀葵(とろろあおい)  当地方では、「のり」の愛称で、現金収入源として、ひろく栽培されているが、「のり」ぐらいこの地方の農家を一喜一憂させた作物はない。
 価格の如何は、その年の秋祭に消費する魚の売れ具合に影響する程生活に密接な関係があった。或る年は四㌔六〇〇円、或る年は暴落で収穫せず、そのまま畑に放置されるといった具合である。
 この不安を除く為、農協は契約栽培を実施し三五年頃、一二万㌔前後の契約を行ったが、価格の高い年は、農家が市販に廻す量を増すため契約量が守れず、反面安い年は、農協に大量出荷。三六年には、約二六万㌔の出荷があり、農協ものりの出荷では、大分頭を悩まされた。
 その後、栽培が減り、昭和四八年の契約量は、一万九千㌔である。
 木 炭  山に囲まれた本村では、木炭の生産量は高く、昭和三五年頃は、農協の取り扱い量だけでも三万俵と三椏と共に、販売事業の一翼を占めていた。
 その後、生活様式の変化により、石油・プロパンガスの消費量が増加すると共に、木炭の消費量も大幅に減り、加えて杉桧の植林により原木も枯渇し、四〇年ころは一万俵、四七年一〇〇〇俵と、農協取扱量も極端な減少を示した。

米穀買入実績

米穀買入実績


美川村に於ける養蚕推移

美川村に於ける養蚕推移