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美川村二十年誌

三、養 蚕

 かつては養蚕王国を誇った当地方も、昭和一五年仕出の西岡初太郎を最後に、全くその影をひそめて食糧増産に没頭した。やがて終戦を迎へ、順次日本経済は発展段階に入ったのであるが、その間、衣生活においてもつぎはぎだらけのもんぺから真新しいもんぺにかわり、上流社会では化繊では味わうことのできない肌触りを求めようとするかに見えた。昭和三三年の頃、中村の佐々木育太郎が愛媛県蚕糸謀の佐々木幸夫の奨めもあって、約三畝程の桑苗を植付けたのが戦後の草分けであったと記憶する。その後、中予蚕業指導所長小野徳美が西古味出身の関係もあってか仕七川地区に養蚕熱が高まった。翌三四年には福原市義・西田久吾・村上宇太郎・山之内栄・藤野正義・西田利美・押岡袈裟秀・高岡忠義・松岡貞夫が新植をはじめ、佐々木育太郎と合せて一〇名をもって任意の養蚕組合を結成、初代組合長を村上宇太郎と定め、早くもこの年晩秋蚕を飼育した。ちょうど村においては新農山漁村対策特別助成事業の一つに近代養蚕を進めるための稚蚕共同飼育所の建設を計画していたので、国庫助成対象事業として昭和三五年に小規模なものではあったが中村に共同飼育所を建設した。
 その後この組合は将来漸次発展するであろうと予測されたので、坂本農協組合長・村上任意組合長とも協議の上、美川農協に事業を移換した。戦前の実績に照らしても本村の適産であるとして奨励に乗り出し、集団養蚕集落を指定するなど増殖に力を入れるかたわら、近代養蚕技術普及に努めた。その結果、昭和四五年には養蚕農家二一四戸、桑園面積七、九七五㌃、産繭量四一㌧を生産するに至った。
 その間、養蚕経営の合理化・労力の節減・蚕作の安定等のため蚕業技術員として派遣されていた富永忠志および中予蚕業指導所長小野徳美、指導員として赴任した斉藤則幸及び後任都能敬一らの指導を受けて旧仕七川村役場跡に全村を一元化した稚蚕共同飼育所を設置し、以来一令二令を共同飼育し、養蚕家に配布して飼養させ、生産された繭は当初以来、大洲の今岡製糸と特約販売を行なっている。この間、美川農協組合長坂本素行の物心両面にわたる献身的尽力を、前記の指導者の努力とともに特筆しておきたい。養蚕業は今後中国との貿易自由化によって、どの様に変るであろうか、これが今後の大きな謀題であろう。ちなみに現在の稚蚕飼育所(大字七鳥字西古味所在)の規模は次のとおりである。
 飼育室 三六六平方㍍ 管理室 二〇平方㍍ 飲事室 六〇平方㍍
 貯桑室 八〇平方㍍   飼育能力 三、〇〇〇箱