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美川村二十年誌

第一節 戦後のうつりかわり

 農業は国民経済安定の基本であり、この山村も農林業を中心としている。昭和二〇年の敗戦以来、この村の農業は国の政策に沿ってどの様な施策をとり、またどの様に変ったであろうか。露命をつなぐため山村の伐採跡地と言わず、雑木跡も草地も可能な所はすべて開墾して、いも類・陸稲・とうもろこし・その他の雑穀を作った時代から現在のような豊富な時代へ移っていった過程について、今一度振りかえって見ることにしたい。
 戦後日本の農業は農地改革から農業改革へ、統制経済から自由化へ、農村人口の膨脹時代から過疎時代へ、食糧生産中心農業から選択的拡大へ、零細農業から規模拡大へ、土地生産性追求時代から労働生産性追求時代へ、国内農業から国際競争の中の農業へ、いも類雑穀の強制供出から統制の撤廃へ、労働力中心から機械化時代へ、澱粉食中心から畜産物へ、物の欠乏時代から余剰時代へ、多角的経営から主産地形成へ、そして増産時代から米の減産のための生産調整時代へと、まことに変ればかわるものである。 
こうした一連の流れの中でとられた政策の主なものを見ると、先ず昭和二一年自作農創設特別措置法が制定されて、昭和一三年制定の農地調整法は大巾に改正されている。前者の目的は耕作者の地位の安定と農業生産の増強にあり、後者は農地の所有者の地位の安定を目指したものであって、ここに所有権にかわる耕作権優先の制度が生まれたわけである。その後、食糧事情の好転によって農地改革から農業改華へ進むため、農地調整法と自作農創設特別措置法を一本化して昭和二七年農地法が生まれ、農業規模の拡大と機械化近代化へと方向を転換する事になり、そのため土地改良法も改正されるに至った。
 二七年頃から日本経済は、戦前の水準に回復して新しい発展段階にはいったが、高度経済成長政策の中にあって農業者の所得は伸びなやみ、都市勤労者と農業従事者の所得は年と共にひらいていった。三〇年から三三年の間に消費水準は都市では一七%上昇したが、農村では八%に止まった。その後さらに三五年、池田内閣による所得倍増計画の推進によって都市と農村の所得はいっそう大きな格差を生ずるに至った。
 政府はこうした格差是正の一環として三六年に低開発地域工業開発促進法、翌三七年五月新産業都市建設促進法を制定し、いっぽう農業に対しては国際競争に対応し得る近代的農業に脱皮するため農業基本法を制定した。その内容は大別して、構造政策・生産政策・価格政策・流通政策によって組立てられ、推進の方法としては地域の実情に即した農業政策を展開しようとするものであった。
 その間、新農山漁村振興対策事業・農業構造改善事業・林業構造改善事業・土地改良事業・辺地対策事業・過疎対策事業のほか、議員立法としては積雪寒冷地帯農業振興臨時措置法・特殊土壌地帯農業振興臨時措置法・急傾斜地帯農業振興臨時措置法・海岸砂地地帯農業振興臨時措置法等を制定して、地域の実情に応じて振興策が樹立された。本村のような山村地域では政府の意図する経営の拡大と機械化による生産性の向上の施策には限度があるので、可能と目される土地改良について鋭意努力したのであった。その後、四五年に累積する食糧管理特別会計に堪えかねた点もあって、米の生産調整と言う名をもって減産政策がとられ、いっぽう国の一世帯一住宅を目途とした住宅政策と、一部投資家の投機等によって地価は急上昇し、この頃から農地は多く農業者の手を離れるに至った。
 また郡市に集中した人口は経済的余裕をもち、日曜祭日等は自家用車を駆使して、清浄な空気と自然を求めて山野に行楽を楽しむ者が多くなり、これらを受け入れる為の自然開発とレジャー産業が台頭する事になった。
 そうした一連の社会の変動に対して、この村は合併以来どのような施策を講じたであろうか。一翼を担う農業協同組合・森林組合・農業共済組合・商工会・面河川漁業協同組合など村内の公共的団体と、村の機関である農業委員会がどの様に活動したか。本村の産業の中心である農林業について、以下項をおって記述してみたい。