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美川村二十年誌

二、市制町村制(明治二一年)

 明治一六年一二月に内務卿となった山県有朋は、ドイツ人の法学者アルベルト・モッセを招いて市制町村制の原案をつくらせた。その法案が二〇年一一月に出来て、元老院・内閣で論議された。町村長公選という原案に対して元老院で強い反対があったが、山県は「真の自治の精神をやしなうためには公選でなくてはならぬ」と主張して、原案をおし通した。また公布にあたっては大事をとって、二一年二月に市制町村制研究会を開いて地方長官を招集して趣旨を徹底させることにつとめた。この席上で山県は、「国家の基礎を強固にするためには、まず町村自治の組織を立てなくてはならない。国家と町村との関係は、たとえていえば家とその土台のようなもので土台が弱くて家だけ丈夫である道理はない。国会開設もま近い現在において、地方制度の確立は一日も延ばすことの出来ない急務である」と述べ、また実施にあたっては人民の気持を聞いて慎重を期するようにと注意をあたえている。
 二一年四月一七日に市制町村制は公布され、翌二二年四月一日から二三年にわたって全国に施行された。新しい町村は三〇〇戸から五〇〇戸くらいを標準とし、民情に反しないように、という注意が二二年六月の内務大臣訓令の中に記されている。また市制では人口二万五〇〇〇以上を市の標準とし、それ以下でも将来の発展の予想されるものは認めることにしている。
 この結果は全国に七万〇四三五あった町村が、二二年末には三九市一万三三四七町村になった。二二年一二月一五日に全国で三八番目の市として松山市が出来たが、これは今までの市街地に隣接する持田村・中村・味酒村・立花村の各一部を編入したもので戸数七五一九、人口三万二九一六で、国が示した市の人口基準を大きく上まわっていた。
 大愛媛県の中から香川県が離れたのは二一年一二月のことであるから、市制町村制の実施は伊予一国の愛媛県にもどってからのことである。この制実施の結果、愛媛県は一市一三町二八五村となり、これまでの町村数の四分の一になった。いま上浮穴郡について町村制実施のあとを見ると次のようである。
新村名    旧村名
 杣川村   杣野村、大味川村
 柳谷村   西谷村、柳井川村   
 中津村   久主村、黒藤川村、沢渡村
 弘形村   日野浦村、中黒岩村、上黒岩村、大川村、有枝村
 仕七川村  仕出村、東川村、七鳥村
 川瀬村   直瀬村、上畑野川村、下畑野川村
 明神村   東明神村、西明神村、入野村
 菅生村   菅生村
 久万町村  久万町村、上野尻村、下野尻村
 父二峰村  露峰村、二名村、父野川村
 田渡村   臼杵村、吉野川村、中田渡村、上田渡村
 参川村   本川村、中川村、上川村
 小田町村  大平村、日野野川村、寺村、町村
 石山村   南山村、立石村  
 浮穴村   北平村、小屋村、川上村
 一五     四四