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美川村二十年誌

一、郡区町村編成法(明治一一年)

 かねて西洋の地方制度の調査にあたっていた内務卿の大久保利通が帰朝してくると、「自治行政こそ立憲政治の基礎である」と力説して大区小区制の検討をはじめた。その結果、大区小区制はわずか六年たらずの寿命で廃止されて明治一一年七月に、郡区町村編成法が公布された。これは左記の六条から成る簡単なものであった。
 第一条 地方ヲ画シテ府県ノ下、郡区町村トス
 第二条 郡町村ノ名称ハ総テ旧二依ル
 第三条 郡ノ区域広闊二過ギ不便ナルモノハー郡ヲ画シテ数郡トナス、東西南北、上中下郡ト言フガ如シ
 第四条 三府五港其他人民輻榛ノ地ハ別二一区トナシ、其広闊ナルモノハ区別シテ数区トナス
 第五条 郡毎二郡長各一員ヲ置キ、毎区二区長各一員ヲ置ク、郡ノ狭小ナルモノハ数郡二一員ヲ置クコトヲ得
 第六条 毎町村二戸長各一員ヲ置ク、又数町二一員ヲ置クコトヲ得、但区内ノ町村ハ区長ヲ以テ戸長ノ事務ヲ兼ヌルコトヲ得
 つまり一条では府県の下には行政単位として郡区町村をおく、区はのちの市にあたるものである。二条では郡町村の区域、名称をもとのままに復活させ、三条では郡の区域の広すぎて不便なものは東西南北とか上中下などの数郡に分けることを認め、四条では人口の特に多い地は区、または数区とすると規定している、後段は大都市に適用されるものである。五、六条では郡には郡長、町村には戸長を各一名置くことにするが、小さな郡や町村では数郡に郡長一名、数町村に戸長一名でもよい、としている。
 このとき愛媛県では三条の規定にしたがって郡の手直しを行なった。他郡にくらべて著しく広大な宇和郡を東西南北の五郡に、浮穴郡を上下二郡に分けた。そのため明治初年に伊予国内に一四郡あったものが、明治一一年の末に一八郡となった。そして同年一二月一六日に郡長が任命されたが、五条の規定を適用して狭い郡は二郡または三郡を兼ねる郡長もあって、一八郡に一四名が配置された。いま上・下浮穴郡の初代郡長およびその管内のようすを見ると、次のようである。
  郡名  郡役所所在地  初代郡長 管内人口   戸長数
 上浮穴郡  久万町    秋山 静 二九、三二五  二八
 下浮穴郡  森松村    桧垣 伸 三八、四七四  三六
 もともと浮穴郡は藩政時代に松山領・大洲領・新谷領に分けられていたものが上・下二郡に分けられたので、上浮穴郡は久万山分と小田分を合せた四四村、下浮穴郡は六〇村となった。このときの久万山は久谷・窪野を含まず、(地勢の関係から明治七年に離脱)また大洲領となっていた下野尻・露峰・二名・父野川を合せている。したがって上浮穴郡四四村に対して戸長数二八というのは六条の規定が適用されたものである。
 明治一七年には戸長も民選となり、町村が一つの自治体とみなされるようになったが、当時の町村数は全国で七万もあり、こうした小規模の町村では立憲政治の基礎となる自治体としては弱少にすぎる。政府は町村の数を思い切ってへらし、一町村の区域を拡大することを考えた。戸長は平均二、三力町村を管理していたから、戸長役場の数は全国で三万三八〇〇くらいあった。政府は新しい町村数をこの戸長役場数の三分の一、つまり一万一五〇〇くらいにして、来るべき国会開設に備えようとした。