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面河村誌

(一) 出 産

 最近の我が国の出生率は、予想以上のスピードで減少へ向かっている。太平洋戦争終了後、いわゆるベビーブームの昭和二十二年から、昭和二十四年までの出生率(人口千人当たりに生まれる子供の数)は、三四人から、三三人でピーク、その後しだいに減り続け、過疎・過密現象が問題になり始めた昭和三十年から人口減少が目だち、昭和三十六年、一六・九人と落ち込んだあと、じりじりと上がり始め、昭和四十一年の丙午の一三・七人を別として、昭和四十八年には、一九・四人と少し伸びている。それが昭和四十九年になって、出生率は一八・七人に落ち、そして、一七・一人、一六・三人、昭和五十三年に至り、一五・五人と落ち込んだ。
 面河村の昭和五十一年度の出生児は六人、出生率は約三・五人、全国平均の約四分の一であり、昭和五十四年度の新生児は、村内でわずか三名である。
 また別の全国調査によれば、現在の出産可能な年齢の夫婦の子供は、一夫婦一・九人となっている。これは人口老齢化が進む中で、出生率の低下は、社会や経済の面で、大きな歪を残すものといわれている。
 現在、世界では、毎秒四人の赤ちゃんが生まれており、その人口は、ついに四二億人を突破している。このままいけば、二十七年後には、世界人口は、現在の二倍の八四億に達する。これから二五年以内に、食糧生産を今の二倍に上げない限り、既にじゅうぶんとはいえない現在の供給水準が維持できなくなると、国連統計局は、警告している。
 昭和五十二年度厚生省人口研究所の調査によると、
 (1) 夫婦の平均出生児数は、年々低下し、一・八九人である。
 (2) 妻の考えている子供の数は、三人から二人に移行している。
 子供は「二人以下」という考え方が、定着した。それは一時的な現象でなく、生活意識の転換である。これから、出生率が、大幅に回復することは、まずありえないのではあるまいか。
 昭和五十三年三月、我が国の人口は、一億一四五四万人、このまま進むと、二、三十年先には、人口の減少が始まると予想され、五〇年後の一億四〇〇〇万人という従来の停止人口予想は、出生状勢に変化のない限り、その修正は必要であろう。
 母親の健康状態や養育の環境・地域の衛生状態によって、大きく影響される。乳児死亡率は、その国の衛生水準の指標といわれるが、昭和五十二年の死亡件数は、一万七〇〇〇件、死亡率は、出生児一〇〇〇人に対して九・三(三一分に一人の割合)で、世界でも低率グループのトップである。
 今の面河村で、初めて赤ちゃんを産むと妊娠中の健康診断や入院分娩料だけで約一七万五〇〇〇円、それに、ベビーベッドなど、母児用品代などの間接費を加えると、二〇万円を軽く越すというのがだいたいの平均した経費である。
 最近の例をみると、健康診断が九回で、一万九八〇〇円(一四万二二〇〇円)、入院分娩費一五万円(七日間)、計一六万九八〇〇円である。なお、直接費以外に、交通費・妊婦服(マタニティードレス)・ベビーベッド・その他、母児用品の購入費の比率は高く、出産後一か月を限定しても、初産婦で約五万円、産前産後(授乳期九か月)の食費の増加分が約八万円といわれている。
 これらは、現在の面河村の一般的な実情であるが、当村で産婆(助産婦)の手で出産するようになったのは、昭和十年ごろからで、ましてや、松山市などの病院での施設分娩は、昭和二十五年以降からである。
 それまでは、妊娠中の健康診断はもちろんなく、出産ぎりぎりまで炊事・洗濯・農作業、出産は自宅で、部落の年輩の婦人に取り上げられ幼児はすべて母乳、こうした出産・育児が、よければあたりまえ、悪ければ不運、おおかたは、天命、自然の成り行きに、任さざるをえなかった。
 それでも、赤ちゃんは育っていった。今から考えるとずいぶん、むちゃな時代であったかも知れぬ。
 昭和四十九年ごろから、燎原の火のように母乳主義運動が広がってきた。授乳は母と児のスキンシップの最たるもの、それが昭和四十年代の初めごろから、高度経済成長期の中で、ひたすら物質文明が讃美され、合理主義が追求され、母乳離れを促し、母乳のピンチヒッターであるはずのミルク(特殊調製粉乳)がその主役に躍り出てしまった。それが「自然に帰れ」の一つとして、母乳運動を唱えられるようになった。そして現在、母乳党が、四〇%程度と、推計されている。
 ここに、出産について、次の三つのことを、併せ記したい。
 (1) 五つ子誕生
   昭和五十一年一月、鹿児島市立病院で、日本で初めての五つ子が誕生した。父親は東京NHK放送記者(妻紀子)である。排卵誘発剤が話題になった。
   男二人、女三人、極小未熟児だったが、医師団の苦労のかいあって現在五人全員順調に発育し、全国から祝福されている。
 (2) 人工受精児
   東京慶応義塾大学医部の附属病院で、昭和五十二年一年間に、約六五五人が人工受精(配偶者間)を受け、そのうち、四〇%から四五%が妊娠した。昭和二十四年八月、その第一号の赤ちゃんが誕生して以来、同病院で生まれた人工受精児は、今日までに五〇〇〇人を越えるという。
 (3) 試験管ベビー
   昭和五十三年六月、イギリス、オールダム病院で世界初の体外受精児が誕生した。女の児でルイーズちゃん。
   医学の勝利か、反倫理か、試験管ベビーをめぐる議論が沸騰した。
   さて、親は、予供の将来の生き方について、約七〇%が「平凡でもいい、家族と楽しめる生活を送って欲しい」、そして「思いやりのある子」が「勉強のできる子」をはるかに引き離しているが、これは、本音が隠されているのかも知れない。
   さて我が国は、明治時代から妊娠期間を独特の「月数」で表示してきた。実際には、赤ちゃんは、満九か月で生まれるのに、今の数え方「一〇か月」は満一〇か月と混同される。妊娠何か月という、日本独特の数え方が、世界保健機関(WHO)の勧告を受け入れて、昭和五十四年四月から「妊娠何週」に変えることになる。これも一つの変革である。