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面河村誌

一 石墨山物語

 石墨山は、仙野前組部落のシンボルである。黒森・割石峠の連峰、さらに白猪峠・井内峠に続き陵線を描く。標高一四五九メートル、ここに源を発する黒砂川は、面河村随一の水田を潤し、山腹の斜面の萱の群生は、かつては屋根萱となり、さらに肥草として刈り取られた。
 春は一面青畳を敷いたように、その中に咲く夏の笹百合のかれんさ、秋は見渡す限りの芒。石墨山のたたずまいは、晴れるにつれ、あるいは雨や風、そして雪にと、四季おりおりのながめは、前組部落の人々の心の寄りどころであったかも知れぬ。しかも、この山にまつわる伝説は、さらに山の神秘さを物語るものかも知れない。
   昔、その年代は、さだかではないが、石墨山の麓本村のあたりに、赤鬼法性院と呼ばれる修験者が住んでいた。夏も盛りのある日、萱場で肥草を刈っていた夕暮、異様な草ずれの音、何物ならんとその方を見れば、胴廻り一尺五寸余(約五十センチメートル)もあろうかと思われる大蛇が、逃れようとする大兎の後足を喰えて、必死に組み討を演じている。法性院はこの光景を見て、持っていた草刈鎌を振り上げ、大蛇の頭に強力な一撃を加えると、何状もってたまるべき、大蛇は折角の獲物を放して、一目散に萱場を横ぎり、何処かへ逃げ去った。
   そして、その日の真夜中、丑三つ時、法性院とその女房の臥所は、異様な妖気が漂よった、窓からさす月の明りに照らされて、大蛇が真っ赤な舌をちらつかせながら、法性院に襲いかかろうとしているではないか。もうこれまでと観念した彼が、早速立ち上り、両手を頭上に上げるや否や、大蛇は彼の身体に巻きついてきた。この凄ましい光景に、女房は悲鳴をあげ、ただ、あれよ、あれよと、恐怖におののくばかり。
   しかしながら、流石に彼は修験者、少しも騒がず「出刃、出刃」と叫べば、彼女は出刃庖丁を主人に渡す。時をすかさず彼は、大蛇の胴体を二突、三突、さしもの大蛇も、流れ出る血の海の中に、敢なく残髄を横たえたとか。
   ほっと一息、庭に出れば石墨山の端にかかる月光蒼く、あたり一面静寂、ふと目をやれば、庭先の草葉の中を、嬉々として飛び去る兎の姿、しかし、それは、彼の眼の錯覚であったかも知れぬ。
   法性院は身の丈七尺(二・一メートル)余りの大男、筋骨逞しく、大力無双、ある時は石墨山から転り落つる大石を一人で受け止め、十人力の強力といわれ、ある年の豪雨で、山崩れのため、雪崩のように流れ落つる石を、ただ一人で、次から次へと受けとめ、部落の災害を救ったとも伝えられている。
   そうして晩年、女房を亡くした孤独の彼は、世の無常を感じてか、何事かを心に決し、石墨山の頂上近くの岩陰で「定」(宗教的な瞑想・禅定)にはいり、鐘を打ちつつ、ひたすら念仏を唱えたといわれる。
   打つ鐘の音は、風に乗って、集落の人々にも聞こえる。あるいは高く、また低く、それも日一日、細々と余韻を残すのみ、そして二十一日目、遂に鐘の音は絶えた。心配した部落の人々が、法性院を探し求めて、山に登ってみると、眠るが如くこの岩陰に俯していた。静かな、修験者らしき大往生である。
   氏も素性も、さだかではないが、呼びなれた法性院の功徳を讃え  ようと、彼を石墨大権現として、本村に祠を建て、彼の霊を弔った。
   今もなお、石墨山の岩陰の祠には、法性院の巨大なる白骨が納められている。そして俗人が手に触れると、石墨山は、一天俄かにか き曇り、雷雨がとどろくと伝えられている。
   石墨山は前組の人々にとっては、神の山であり、女人禁制であった。そしてもろもろの祈願を行う聖地でもあった。今、本村にある石墨大権現の社殿・屋根も柱も朽ち果てて、往年の面影見るよしもないが、それが却って、石墨山にまつわる、さまざまな哀愁をそそるかも知れぬ。
 ともあれ、石墨山と黒砂川は、約一千二百五十余年の昔の前組開拓以来から、そしてこれからも、前組集落の人々にとって、神の山・母なる川として、無限の存在であろう。そして、石墨の名は、前組のもう一つの名でもある。前組の代名詞ともいえよう。
 時は過ぎ行き、世は移り、人は変わるとも「石墨山物語」は、この地のロマンスとして、いついつまでも語り継がれることであろう。