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面河村誌

五 獅子舞い

 獅子舞いは、獅子頭に布帛を着けて行う舞いで、その昔支那(中国)唐から伝来し、もとは舞楽から出たものといわれる。後世大神楽などで、五穀豊作の祈願・悪魔払いとして行われるようになった。
 明治時代には、正月などに、獅子舞いを生業とする者が、二、三人連れで、獅子頭をかぶって家々を舞い歩き、米や銭をこい、悪病退散・悪魔払いと称して旅から旅へと渡り歩いていた。
 当地在来の獅子舞いとしては、本組・笠方に今もなお受け継がれていて、郷土芸能として定着している。
 1 本組の獅子舞い
 これは、明治時代の後期、当時の温泉郡南吉井村田窪より指導者を招聘して獅子舞愛好者が、その教を受けたといわれている。石丸知直・松本忠明・松本繁次・高岡盛茂・菅詮明・中川久太郎・中川富繁らの有志で、これが本組獅子舞いのルーツである。しかしながら、その後中断又は復活と数々の変遷を繰り返し、昭和五十年、大院万三郎らを中心として、本組獅干舞いの復興が叫ばれ、集落の人々をも動かし、やがてそれが公民館活動の一つとなり、現在八幡神社総代が主宰、その経費は、神社費並びに部落寄付金で支弁されている。
 昭和四十八年(一九七三)のオイルショックは、これまでがむしゃらに働いてきた高度経済成長期の物質文明に対するある種のむなしさを思うかのように各地で民族伝来の精神的な郷土芸能が見直される風潮がしだいに高まってきた。盆踊り・万才、そして、獅子舞い、しかりである。
 静寂の氏神の森の杉木立に響く獅子太鼓・拝殿に舞う獅子踊り、その数々は、
   スマジ(清・洗)…………あらい清める
   シテン(地天)……………大地をつかさどる神の舞い
   サンバソウ(三番叟)
   ミ コ(巫女)……………ミコの舞い
   マエギリ(前切)    前半最後の舞い
   カグラ(神楽)
なお、本組の獅子は雌獅子で舞いそのものもつやのある優雅なものである。
 2 笠方の獅子舞い
 明治時代の初期まで、笠方は割石峠を越えて、温泉郡川之内問屋(地名)を中継地として、松山地方との物資・人の交流が盛んであった。秋祭りの近づくにつれ、松山近辺の村々で、夜ごとに響く獅子太鼓、それに魅せられた笠方菅野只次(明治二十年死亡)は、明治初年、温泉郡井内村の獅子舞連中より、その舞い・太鼓を伝受されたものであると伝えられている。
 笠方獅子舞いの中心は、部落の若者たちであったが、明治四十一年青年会活動の中に組み入れられ、以来、秋祭など、八社神社の祭礼に、あるいは豊作祈願、部落の人々の娯楽として盛んになった。けれども、明治四十年ごろ、獅子頭の破損などのため一時休止、その後復活したものの太平洋戦争ぼっ発以来、数多くの青年が戦争に狩り出されたため獅子舞いも見捨てられてしまった。
 昭和五十年、面河村老人クラブ・婦人会・青年団の三世代交流会(中組公民館)の場で、藤原道明・松村義一・笠井国嗣などの努力により、笠方獅子舞いが復活ひろうされ、太平洋戦争終了後、細々ながら受け継がれたその成果が、いわゆる日の目を見るようになった。
 カグラ(神楽)・スマシ(清洗)などの舞いがあるが、中でも「マゴザイサン」は、獅子と、お爺・お媼・猿・狐の乱舞する壮快とユーモラス、ちょっぴりお色気の織りなす獅子舞いのドラマともいえる。
 トントコ、トントコ、マゴザイサン
 トコトン、テントン、トコトントン、
この太鼓のリズムは、何か郷愁を、そそるものがある。
 昭和五十三年九月、えひめ芸術祭民族芸能祭が、松山市において開催された。笠方獅子舞保存会(増田寿幸・土居昭彦・高岡常夫・長山南海男・藤原道明・松村義一・笠井国嗣・菅広光・上田信文・小椋勝彦)も、この民族芸能祭に参加して、面河村の芸能として「マゴザイサン」をひろうした。
 この会場(松山市立勝山中学校体育館)の最前列、一人の婦人がそっとハンカチで涙を押さえていた。面河ダムのため、水没した故郷の土地・家・人々をしのび、この笠方の獅子舞いに、過ぎ来し方をこよなく追憶する感激の熱き涙、情緒豊かに娘時代を笠方で送った八幡信子、思いは遠く、かれんな乙女心に帰ったことであろう。
  朝露のかがやいている顔洗ふ    昭和二十四年八幡信子作
 面河ダムの湖底に沈んだ田畑二九ヘクタール・戸数八四、そして去りし人々三六一人、今は往年のにぎにぎしさは求むべくもなく、宮太鼓の響いた八社神社もダムの底に沈んだものの、残ったわずかの人々が、亡き人々の霊に、去り行きしだれかれにこたえるべく、獅子太鼓をダムの水面に響かせている。古き獅子頭、汗にまみれた古き衣装をまとって、伝統の笠方獅子舞いを守り続けんとして。