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面河村誌

三 住 居

 「竹の柱に萱の屋根」ということが、この地方で古来から伝わっている。まさしく、開拓初期の住居は、掘っ建て小屋、尾根は萱又は木の皮、囲炉裏敷物は、萱を編んだもの、恐らくこれが、先住者の住宅の原形であろう。
 明治時代になってから、農民相応の大工による家屋が順次建築された。基礎は自然石(いしくち)の上に柱を立て、柱の長として大黒柱、上部木組みの支え、背髄として「うし」(牛梁ーうしはり)、そして鴨居・桁・梁を取り付けがっちりとした骨組みができ上がる。
 柱は、主として栗・栂・松・「うし」は松の大木、屋根は、小屋組みで萱でふき、切妻に破風を付け、合掌形の装飾板に「水」などの文字を入れ、火災予防、家内安全などのまじない(呪、符呪)とした。蔵を建てたのは、いわゆる大百姓である。
 敷物は主として筵、畳は座敷と呼ばれる一部屋ぐらいであった。
 ここに掲げた農家の平面図は、今から約一〇〇年前、明治十一年(一八七八)ごろの建築である。内部・外部ともに、多少の改修はしたものの、その木組み・屋根・間取りは、建築当初そのままで、よく一〇〇年の風雪に耐え、天然木素材の優秀さ、大工仕事の精密さを如実に示すものである。当村における典型的な稲作、雑穀農家向きの建築様式で、しかも、大家族の住いに、順応した間取りである。
 土間と囲炉裏は、必ずある。時には、土間のすみに大釜を備え付け、楮・三椏などを蒸す。囲炉裏は、一家団欒の場であるとともに、冬の暖房・炊事を兼ねる。飯・菜・茶沸しなど、すべて囲炉裏を使い、一家がそれを、囲んで食事の場でもあった。くど(竈ーかまど)を築き、釜で飯を炊いたのは、大正時代からであろう。
 昭和三十五年(一九六〇)の経済の好調を通称岩戸景気といい、経済の高度成長につれ、人々は新しい文化と、生活様式を求め、旧来の農家の建物は、順次改築又は内外部が改造され、そのシンボルともいえる囲炉裏は、ほとんど姿を消した。
 既に述べた衣服・食生活さらには生業の変化に伴い、その入れ物である住居の近代化は、当然であろう。
 昭和時代になってから、五十有余年、長い目で見れば、歴史上のただの一点であろうが、この五十有余年の衣・食・住の変転は、実に驚嘆に価するものがある。明治生まれの古老が夢想だにしなかった、世相の移り変わりである。
 現在の生活を謳歌することもちろん結構である。しかし、我らの先祖が、この人跡未踏の深山幽谷で、一本の木を切り倒して小屋を建て、雨露をしのぎ、一鍬一鍬を大地に打ち込んで田畑を開墾し、約一〇〇〇年の間、営々と築いた面河村の礎石は、忘れてはなるまい。
 古きものに、あるいは真理が含まれているかも知れぬ。

農家の平面図(相之峰 菅万徳宅)

農家の平面図(相之峰 菅万徳宅)