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面河村誌

(一) 主 食

 この地方の主食は、古来から昭和三十年ごろまでトウキビ(唐黍ーとうもろこし)である。
 村内のほとんどが農家、それも唐黍作り、何はなくとも常食の唐黍を作ることが本命であったといえる。秋の取入れ時、各農家は、唐黍を乾燥するため、イナキ(稲架)ににぎにぎしく架けて、その作柄、でき高を誇示したものである。
 唐黍は、風に弱い。一夜の台風で、一年の収穫ゼロの時さえあった。唐黍を作ることは、ある意味で、風との戦いでさえあったともいえる。それでも、なにゆえに唐黍に執着したか。この地が地形上水田が少なく、唐黍以外に、常食にすべき作物がなかったのである。
 藩政時代の田畑の反別は、次のとおりである。  
  ○大味川村  畑 十六町三反七畝  田    三反七畝     
  ○杣野村   畑二十六町五反一畝  田  一町三反
 この田、畑の反別割合から、雑穀作物がその主流であったことがうかがえる。
 石臼の手回しで挽き割って、いわゆるトウキビゴメ、副産物として「ハナ粉」が取れる。トウキビゴメは飯又は餅に、ハナ粉は団子あるいは菜葉などを刻み込んで雑炊にする。
 トウキビゴメに米を三分ぐらい混ぜると味も一段とよく、白・黄と色も鮮やかである。
 秋の初め、唐黍が熟れ始めのころの「焼トーキビ」の味はまた格別、特にこの地在来の唐黍には独特の甘さがある。明治生まれの者にとっては、郷愁さえ感じさせる。今、面河観光の人々に、初秋のころ道筋で売られている。明治の土臭い味覚が、現代の若者に賞味されるとは。
 唐黍をよく乾燥して大釜で煎り、手臼で作る「ハッタイ粉」は、欠くべがらざる食事のアクセサリー、かつまた子供のお八つ代わりでもあった。冬の日、五、六人の女性が、一日又は二日、ハッタイ粉をひき、一年分を貯蔵したのである。一種の保存食でもある。
 藩政時代から明治時代、粟、稗もよく食べた。粟は餅にする餅粟がある。いずれも精白するには、各農家で足踏みの「ヤグラ」を使った。たいていこれは女子・子供の作業であった。
 粟飯について、昔、中国にまつわる有名な言葉がある。
  盧生がみし栄華の夢は五十年、その夢の間も、栗飯炊ぐ程ぞかし…。
 稗を精白したものは、米と同じ価値があった。
 麦飯は丸麦である。裸麦をヤグラで精白して、夜なべに囲炉裏にかけ、ぐつぐつと炊いた。「ぐず男」を、麦飯の沸きくさしという。小豆を入れた麦飯は、おいしかった。
 大正時代の初めから、押し麦が出回った。別名改良麦、米とともに炊けた。
 大正七年、米騒動の前後、外米(ビルマ産など)が輸入された。しかし、これは独特の臭気と粘りけがないことで、日本人にはなじめなかった。
 餅は、正月・盆・節句・彼岸は申すに及ばず、吉凶いずれの時にも、よくついたものである。特に正月には、五斗ぐらいは、どこでもついた。秋の祭りから、春の彼岸までは、普通の餅、夏祭り・盆には小麦粉・米の粉・それに蓬を混ぜたかしわ餅。餅の村料は、餅米は、ほんの少々、粟・唐黍・蓬など、そして時には、稷だんご。小学校の弁当にも、時折餅を持って行った。
 アンコは、小豆の丸粒、塩味、時には栗のアンコ、砂糖を入れた「コシアン」が使われたのは大正時代も終わりごろからである。
 蕎麦を石臼でひいて蕎麦粉を作り、今でいう「かけそば」をよく作った。それこれ純粋のソバで、味も香りも、そして色まで抜群で、この地特有のものであった。またその粉からソバダンゴを作った。今の蕎麦は、ほとんど輸入もので、ソバの味そのものもさることながら、混合物など
入っていて、昔の手製、いわゆるおふくろの味を知っている者にとっては、なんともあじけない。