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面河村誌

(一) 和服(着物)と洋服

 着物を、ヨソイキ・シバ着(ふだん着)・仕事着の三種類に分けてみる。
 男子のヨソイキは、夏は木綿の縞の単衣、冬は同じく、袷と羽織、そして「モス」(モスリン)の帯。浴衣がこの地方で着られたのは、大正時代からである。
 紋付羽織に袴を着用した者は、学校の先生・村長・大組長・学務委員ぐらいのもの、一般の人々は喜びごとであれ不幸なときであれヨソイキの着物であった。
 女子も、男子と大同小異、ただ女子は年齢に応じて、相応の模様のもの、そして帯「前だれ」をつけた。花嫁ですら裾模様の晴衣などはなく、ヨソイキの着物で、三三九度の杯を交わしたのである。
 シバ着は、おおかたは、ヨソイキの着物を流用した。
 仕事着は、男子は木綿の紺の筒袖の上衣と雪袴、帽子は、ほとんどなく、三尺の手拭のねじり鉢巻、女子は着物の着流しに襷をかけた。ともに手甲をつけ、女子は手拭のねえさんかぶり。
 冬の防寒着として、「どんざ」が男女を問わず着用された。どんざ(襤褸)とは、本来ボロのことであるが、古布を重ねて、刺子(さしこ)にした着物であり、時には、イロリ(囲炉裏)ばたで、これを着たままごろ寝したともいわれる。
 明治時代、赤ゲット(毛布)が流行した。田舎の農民たちが、防寒のため、色とりどりのケットを肩にかけて、都会をのし歩いた。これを町の人々が都会見物の田舎者、お上りさんと、いささか軽蔑的に呼んでいた。別名赤ゲット、当時の流行語にさえなった。
 「厚司」は、明治時代の末期から、大正時代にかけて、成人男子が、ほとんど着用した上衣である。着物の上に羽織り、平素はもちろんのこと、ヨソイキにもこれを愛用した。大阪地方で産出された厚くて丈夫な平地の木綿又は毛の織物で、「はんてん」仕立て、両脇に「かくし」(ポケット)がある。
 「はんてん」(半纒)は、羽織に似て、襠も襟の折返しも、胸紐もない上衣。インバネス(英国スコットランドの地名からきている)は、男子の外套、これを長くして二重まわしともいい、羽織・袴の上に着て山高帽、そしてステッキ、明治時代の紳士の代表的姿であった。
 子供も、木綿の縞又は絣の着物で、冬の雪の日も下着など余りなく、木綿ネルの肩掛を頭からすっぽりかぶり、学校に行った。もちろんそのころは、足袋は貴重品、手袋などなかった。
 男子が十五歳になると、晒木綿の六尺褌をしめ、女子は腰巻をした。男子が、ネル、又はメリヤスのシャツ・ズボン下を使用するようになったのは、明治時代の終わりごろからであり、子供が申又・ズロースを着けるようになったのは、昭和十年代の中ごろからである。
 大正時代は、松山の女学生ですら、特別の場合を除き、ズロースは着用しなかった。日本の婦人がズロースを使用するようになったきっかけは、昭和七年十二月、東京白木屋百貨店の火災で、下履きも付けない、着物姿の女店員が、和服の裾を気にして逃げ遅れ、一四人も焼死した悲惨事があってからである。つまり、昭和七年ごろまでは、日本の女性のほとんどが、下履きは着用していなかったのである。
 昭和十年代後半、太平洋戦争が、たけなわになるにつれ、女子も防空演習に狩り出され、女子にモンペ(雪袴、現在の婦人の労働服)の着用が、都会はもちろん農村に至るまで強制され、モンペに綿入りの防空頭巾、それに救急必需品を入れた手製の鞄が、いわば戦時中女性の制服ともなった。
 かつまた国防婦人会が組織され、カッポウ着(エプロン)が、そのシンボルとなった。婦人のカッポウ着のルーツは、大正四年九月、雑誌「婦人の友」が考案発表したものである。
 アッパッパという婦人用簡単服が、日本の夏に流行し始めたのは、大正十三年(一九二四)関東大震災から後のことである。明治から続いた生活改良、つまり洋式化が活発ではあったが、ごく一部の人々を除いて婦人の服装は依然として和服であった。そこへ出現したのが古い浴衣地などで、だれでも作れる婦人服のワンピース型、さっそうと風にすそをひらめかしたアッパッパである。色も柄も、本来の日本的なものから脱してサイケ調、文字どおり簡単にスッポリ着られて、至極便利、洋装のイメージもちょっぴり、しかも活動的で、昭和初期から大流行した。これも、婦人服の一つの革命といえよう。
  (註) サイケ調、幻覚的・繊細を意味する。
 昭和三十年前後からの衣服の変化は実に目ざましい。男子は洋装の礼服(主として黒のタブル上衣)を持ち、女子は裾模様の晴着、黒の喪服、男女とも、ヨソイキは、洋装があたりまえになった。
 型の新旧、着こなしの上手下手は若干あるとしても、明治時代の百姓、お上りさんのイメージは全くない。 
 若い女性の服装は、都会とほぼ同様である。ロング=スカート・ミニスカート・パンタロン・ショート=パンツとテレビやアンアン・ノンノなどのファッション雑誌を通じて、彼女ら(俗にアンノン族)は、下着に至るまで流行を追う。
 ジーンズ・Tシャツ・ホットパンツ・コットン=シャツ、余り金をかけないで、シック(いきな・しゃれている)に着こなしている。
 特に、若者のTシャツ姿が目につくのは、初夏から秋にかけてで、女性の二の腕が太陽の光に映えている。横文字だらけの胸の辺りを見ていると、アメリカ直輸入文化という感じがしないでもないが、ジーンズにTシャツという若い女性の夏姿は、すっかり定着したようである。健康で楽しさあふれた自由な装い。活気あふれる若い女性の感覚をじゅうぶんに発揮できるさわやかな季節の装いは、面河も松山も変わりなくなってきた。
 ファッションに、男物・女物という境界線がだんだんなくなって、最近では男性の服装も女性化し、女性の日常の装いにも、ネクタイが取り入れられ、男に負けない女性のおしゃれを主張している。木綿のブラウスにネクタイを結ぶなど、従来のネクタイの堅苦しさから解放された装いの一つとなった。背広や制服のためのものだったネクタイが、ちょっとルールを外したところに意外性のあるおしゃれの楽しさ、物が変わったのでなく着こなしが変わった。これも一つの特徴である。
 婦人のスカーフのおしゃれが、目だっている。スカーフは元来、首にゆったり巻いたり、頭をおおったりするものであるが、これが衣服化・装飾アート化が新しい傾向である。大きいものは、羽織る、腰に巻く、肩に斜めにかける、髪を包む。そして髪を巻いてバックに結べば、動くアクセサリー、花びらのように首にネクタイふうに結ぶ。あるいは話題の海賊結び。ファッションの多様化・個性化、木綿から絹・色も柄も多種多様、まさに革命である。
 特に最近はトータルファッションが強調され、服の色やスタイルだけでなく、靴・ハンドバッグ・化粧法など全体のバランス、イメージづくりが重視されている。
 本来はスポーツウェア(運動服)であるが、よくのびちぢみし、彩りも豊かなトレーニング=パンツ(トレ=パン)は、子供、青年いや成年男女に至るまで、気軽に愛用されている。運動服としてはもちろんのこと、家庭着・レジャー着として、幅広く無造作に着られ、老人としても若返りの装いである。
 パジャマは、上と下(ズボン型)に分かれた寝間着である。明治時代、この地方では、特に寝巻は着なかった。ふだん着のままごろりと寝たのである。それが、浴衣又はネル・タオル地の単衣、そして今は、子供から大人に至るまで、男女を問わず、パジャマを着用している。そして婦人は、ネグリジェ(ワンピースふう・女性寝巻)を愛用している人もいる。
 木綿を手にする以前の先祖は、麻や藤葛の皮などを織って、衣服にしたといわれる。木綿は古くから渡来品として、高貴の人々は身につけていたが、絹とともに非常に高価で、農民など下々の人には、手の届かぬものであった。
 綿花が日本で栽培され、やがて藍との出合いによって、丈夫で膚触りのよいふだん着、労働着として広く一般の人々に普及したのは、江戸時代も中ごろからであるといわれる。
 決してぜいたくの許されなかった農民・町人たちが、さまざまな制約の中で、自分たちの生活を豊かにするために、工夫を重ね、染めと織りの工芸を育ててきたのである。染めは藍、織りは絣と縞に代表される。絣といえば、久留米絣・伊予絣、かつてはすべて手仕事・家内工業であった。
 大正時代まで、松山市及びその近辺の女子は、内職として伊予絣を織った・格子造りの家並みの露地は、どこでも、とんからとんからと、手機織りの音が聞こえた。石川県の土手、人通りの少ない道々では、糸くりの作業が見られた。
 けれども、本来の木綿織り、藍染めも、織機の出現と化学繊維・化学染料の発見で、織りは機械織り、染めは型染めとなり、柄・模様の多様化につれ、木綿本来の手触り、柄、藍の香りがなくなった。しかし、今、静かに、木綿のよさが見直されつつある。
 木綿・絹・麻・そして毛は、衣類の重要な原材料である。けれども満州事変から太平洋戦争に至る間、しだいに供給不足となり、そこで生まれたのが人絹(人造絹糸・スフ)である。その他、テトロン・ビニロン・ナイロンなどの化学合成繊維が次々と開発され、材料・色・柄・デザインも近代感覚を取り入れ、豊富に出回り、天然ものをしのぐようになった。
 (註)
  人絹ー天然絹糸にまねた、人造の織物用繊維、綿花や、木材パルプが原料、レーヨンともいう。
  ステーブル、ファイバー(スフ)ー人造繊維を短く切りこれを紡績した糸・織物・人造綿花
  ナイロンー一九三五年アメリカで開発された合成繊維、絹に似た光沢を有し、絹・人絹に比べて比重軽く、耐久力は絹の二、三倍、特に婦人の靴下(ストッキング)は有名である。ナイロンは商品名でもある。
  テトロンー合成樹脂繊維・ポリエステル
  ビニロンー合成繊維の一種、日本で創造