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面河村誌

第二章 衣食住の移り変わり

 衣食住は、人の生活で最もたいせつな役割を持つものである。藩政時代は、ぜいたくは御法度で、質素・倹約を強制され、特に農民は特別な規制を受けた。衣類地は木綿に限るとか、色も浅黄かねずみ色、染代は安いもの、手拭の長さは三尺(約九一センチ)まで、前だれも紺色はだめで、薄浅黄、雪駄・さし下駄を履いてはならぬ、櫛は木櫛、笄(髪かき、男女とも髪をかき上げるもの、後年婦人のマゲにさして飾りともした)も、銀・象牙などの細工ものは使ってはならぬとか、このように、髪飾りに至るまで、さまざまな、御法度があった。
 百姓の平素の食事は、粗食でなければならぬ。ただお伊勢講・念仏講・寄り合いには、米を持ち寄るのもよいが、一汁一菜を過ぎないようにするとかなどである。
 家屋の屋根は、草葺に限る。無断で家を新築してはならぬとか。
 こうした、百姓に対する、衣・食・住の制限は、ある点では、節約を通り越して過酷なまでに規制された。そうしたことが、藩政時代の百姓に対する幕府の政策でもあった。
 しかし、このようなことが、当地にあったかどうかは、不詳である。
 明治時代の末期から、大正時代は、青年男子の軍隊入営、都市との交流、教育の普及などに伴い、山間僻地の農民の生活もだんだん閉塞的でなくなり、衣食住すべてに、いわゆる文明開化の波が押し寄せてきた。しかしながら、昭和十年代の後半は、戦争の泥沼にのめり込み、衣食の生活は、暗黒時代ともいえる悲惨なものであった。「欲しがりません、勝つまでは」一握りの塩を求めるのに苦労し、三尺の手拭一本にも、衣料切符を必要とした時代であった。
 米の飯を食い洋服を着て靴を履くなどは、とても明治時代の農民には、見果てぬ夢であった。それが現在、自家用自動車を乗り回し、東京はおろか、世界のニュースが、テレビを通じて即刻知ることができ、すべての男性は洋服を持ち、婦人は、新しいモードのシャツ姿、トースト・インスタント=コーヒーの朝食、ここ、二、三十年来の生活様式の移り変わりは、全く驚嘆の至りである。恐らく、これは、当地のみならず、日本の生活史の中でも、特筆すべき一大変化ではあるまいか。