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面河村誌

第一章 小走(こばしり)

 藩政時代の久万山には久万山代官所があった。また、それぞれの村には庄屋・小走・使番を置き、当時の村の広報は、小走が庄屋の命を受けて、村の行政、年貢の取立などのいわゆる「おふれ(触)」を、広く人々にロ伝えで、伝えたものである。庄屋の配下ではあるが、庄屋同様代官所から給米を支給された。当時の記録によると、杣野村小走四人、給米年八俵、大味川村小走三人、給米年三俵三斗となっている。(久万山手鑑)
 やがて庄屋が廃止されて戸長になっても、小走の広報伝達の任務は、従前どおりであった。
 明治二十三年(一八九〇)町村制実施とともに杣野村、大味川が合併して、杣川村となり、戸長に代わって、大組長(前組・相ノ峰・笠方・渋草・大成・本組・中組・川ノ子・相ノ木・若山)を置いた。大組長はその部落の選挙によって、選ばれた部落の代表であるが、自動的に村の行政機関の一員で、また、村、部落の広報の手段としての任務を持っていた。
 村からの知らせは大組長へ、大組長は配下の小走をして、行政・税金又は部落内の行事などについて、主として徒歩により、口伝で広報活動を行った。
 昭和二十二年(一九四七)、大組長に代わる嘱託員制度が生まれた。小走はなくなり、村の広報は定期の嘱託員会又は随時文書により、各部落に伝達することとなった。
 広報も行政と並行して、縦割りで活動し、現在に至っている。