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面河村誌

(二) 学校給食

一 学校給食の起こりと普及
 児童生徒の体位向上・栄養改善・健康維持など児童生徒の心身の健全な発達を目指して、戦後食糧事情の極めて悪かった昭和二十二年から、大都市の小学校を中心にミルク給食が開始され、昭和二十五年からはパン・ミルク・おかずの完全給食へと進んだ。これらの物資のうち、小麦粉・ミルク(脱脂粉乳)は、米国政府その他からの寄贈物資であった。
 本県においては、これが普及はかなり遅れており、三十一年に県下小学校中、七六校、三十五年に二一七校程度であった。それが三十八年度には三五二校と急速に進展していった。
 本村においては、三十八年度その機が熟し、給食センターを設けて完全給食を実施しようと、推進委員会を発足させて研究を続けたが、地形上の問題から実施は無理との結論に達し、各校ごとに施設を作って実施することに決定した。
 そこで翌三十九年春から村内全小学校ごとにそれぞれ給食室が完成し完全給食が開始されることになった。
二 本村における学校給食
 1 戦前の学校給食
   記録によると、古く石墨小学校では 昭和十一年において、偏食児と貧困児を対象に給食を実施していたことがある。幾多の困難な問題もあったであろうと思われるが、それらを乗り越えてこれを実施していたことは、本村教育史上貴重な資料でありかつ同時に当時の人情のほどもうかがい知ることができるものと思い、参考までに、時の学校長から、県学務部長あてに提出した「学校給食実施状況に関する報告」文書を転載することとする。
  昭和十一年一月九日  上浮穴郡石墨尋常小学校長 小倉留次
   愛媛県学務部長 猪股 博殿
   児童栄養並ニ学校給食状況ニ関スル調査ノ件
   一 児童ノ栄養並ニ偏食ニ関スル調
   二 学校給食実施状況ニ関スル調
   三 給食実施ノ結果ニ関スル調
    イ 給食児童ノ心身ニ及ボシタル影響
    給食児童ハ多クハ栄養不良ニシテ活気ニ乏シキ者ナリシガ漸時血色良ク活発ニナリ運動ヲ愛好スルニ至リ、眼光ニ生気現ハレ気分モ幾ラカ明朗ニナリ勉学上ノ態度ニ努カノ持続性ヲ稍認ムルニ至リヌ。
    ロ 給食児童ノ感想
    始ノ間ハ唯何トナク恥カシク自ラ卑下セザルヲ得ザルヤノ感アリテ嫌ナ思ノ打続キシモ先生ノオ話ヲ心ニシテ戴イテ居レバ有難サ身ニシミ此ノ御恩ヲ忘レテハナラヌ、大ニ勉強シテ成人シ御国ニ報ネバナラヌトノ感ニ打タル。
    ハ 保護者ノ感想
    我ガ子ノ食事ヲ学校デ受給スルトハ如何ニモ不甲斐ナク貧乏人扱ヒヲ受ケテ不愉快ノ思ヒ強ク、ムシロ断ハラン等思ヒシ事モアレド冷ニ二考フレバ国家ハ我々如キモノノ為メニカクマデニシテ教育シテ下サルカト思へバ実ニ何トモ申シ様ナク、一時ノ恥ヲ忍ビ有リ難ク頂戴シテ早ク此ノ救済ヲ受ケザル様ニ努カシ、幾分ナリトモ之ガ御恩返シヲセネバナラヌ。
    ニ 学校長並ニ教員ノ感想
    給食児童ニ卑屈ナル心ヲ持タシテハナラヌ、一般ノ児童ガ之ヲ誤解シテ侮視サセテハナラヌ等ノ心配ヲナシ其ノ点ニ大ニ意ヲ用ヒガ意外ニモ結果頗ル良好ニテ、之ヲ以テ報恩感謝ノ念養成ノ資料トモナシ得ルト職員一同歓喜ノウチニ実施シツツアリ。  
    ホ 実施上注意スベキ事項
    之ガ実施上ニハ誠ニ細心ノ注意ヲ要シ受給児童及ビ父兄ノ者ニ濫リニ依頼心ヲ起サセズ又自負心自重心ヲ傷ケヌヤウ、真ニ感恩ノ心ヲ持ツテ受クルヤウ導キ学校職員ハ此ノ仕事ヲ厄介ガリ又ハ特種的取扱ヒスルコトナク同情ヲ以テ懇切ニ取扱ヒ聊モ不快ノ念ヲ抱カサザルヤウ努ム、尚之ガ実施上ノ経過並ニ結果ノ如何ニ細心ノ注意ヲ要ス。
    へ 其他賄材料蒐集法等
    食物材料ハ校下一般般民ノ中流階級ノ家庭ニ用フル程度ノモノヲ用ヒ、其ノ栄養価値ニ重キヲ置キテ蒐ム、特ニ冬季ハ暖ヲ採ルニ適セルモノヲ夏季ハ腐敗シ易キモノ等ニ意ヲ用ヒ、干魚等ヲ交へ用フルヤウ、蔬菜ノ類ハ学校及ビ家庭実習地ニテ栽培セルモノ等ヲ用フ。 
   四 学校給食以外ノ栄養増進ニ関スル施設概要
    当地方ノ如キハ主食物ニアリテモ兎角一方ニ偏シ易ク、例へバ夏ハ米麦ノ混食、冬ハ(旧正月中等)主トシテ米食多ク、其他ハ米、玉蜀黍ノ混食ヲ用フルガ如ク、又副食物ニモ之ノ風甚シ、故ニ之等ヲ種々併食スルヤウ、一週間又ハ旬日ヲ以テ主食及ビ創食物ノ料理ノ献立表ヲツクリ、(学齢児童食ニ適セルヤウ立案シ)各戸ニ配布シ参考二供ス。又青年学校生徒ヲシテ家庭実習地ニテ自家用蔬菜ノ栄養価値多キモノヲ栽培セシメ(例へバ、廿藍・白菜・玉葱・ホーレン草・トマト・ツグネ芋ノ如キ)之ガ栽培法・貯蔵法、調理法等ヲ授ケ優良蔬莱ノ自給自足ヲ計ル、尚、養鶏・養兎・養鯉ノ奨励ニヨリ魚肉牛ノ肉ノ得ガタキヲ補フ。
   五 弁当ニ関スル調
    イ 弁当持参児童
    ロ 湯茶給与ノ状況
    冬季ハ各教室ニ採暖用ノ大火鉢ノ設備アリテ、常ニ湯ヲ沸シ乾燥ヲ除ギ、湯茶ノ供給ヲ自由ニシ、其他ハ湯沸場ニテ沸シ之ガ給与ヲ実施セリ。
    ハ 弁当ヲ暖メル設備ノ有無
    特別ノ設備ハ無シ。
    サレド冬季各室ノ大火鉢ニテ握飯ヲ焼キテ用フルモノ多ク暖キ湯茶ニ湿シテ用フルモ亦自由ナリ。
 以上は昭和十一年における偏食児童と貧困児に対する給食であるが、さらに記録に残っているところによると、昭和二十年二月全員に対するみそしる給食を実施したことが明らかである。
 これらのことは、戦前あるいは終戦前の経済的にも、物資の面でもたいへん困難な時代に実施されたことで、村当局並びに校区民の理解と協力のいかに大きかったかを物語るものとして、非常に貴重なものであると同時に、教育史上特筆すべきことである。
 2 戦後における学校給食
 前述のとおり、学校ごとに調理して給食を実施することになり、三十九年三月~四月にそれぞれの学校で完全給食が開始された。(ただし、中学校は渋草小学校と共同調理である)
 施設 給食室は、新たに建築されたりまた古い建物を改造するなどしてそれぞれ内容設備を整えた。
 給食婦 学校ごとに、一~三名の給食婦が雇い入れられた。
  給料は、四十四年までは家庭から徴集する給食費の中から支払われ
 ていたが、それ以降は村費負担となっている。

児童ノ栄養並ニ偏食ニ関スル調

児童ノ栄養並ニ偏食ニ関スル調


学校給食実施状況ニ関スル調

学校給食実施状況ニ関スル調


弁当持参児童

弁当持参児童


給食費

給食費


献立例

献立例