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面河村誌

(一) 石墨地区

 学制頒布以前は寺子屋流義の教育をしており、明治九年三月、所籔組「ハイタカ」の民家(二四坪)を利用して創立された。石墨小学校の沿革史によると左記のように述べられている。
 一 学校位置及び校舎
 明治三十五年一月以前は、所藪組「ハヒタカ」に在りて、相ノ峯・前組の両部落一圓を通学区域とせる校舎なりき。而して其の当時に於ける校舎は民家を充当せる極めて不完全狭隘、教授上不便一方ならず。且つ壁、屋根等廃頽し一日も等閑に附す可からざるに至れり。茲に於て部落民相図り、大字杣野本村組(観音堂裏)に新築することを決議し、寄附を募り、起工せるは明治三四年一月にして、完成を告げしは、同年末茲に校舎四三坪、校地九七坪の新校舎を得て明治三五年一月より開校せり。
 此の結果、相峯児童は通学至難となり、遂に相ノ峯組観音堂を出張教授所に充て、雇教員を聘し代教を行はしめつつありしが、大正二年一二月相ノ峯組に新校舎を建築したるにより、分校の設置を許可せらるるに至れり。
 爾来、本校舎建築より二三ヶ年、分校舎建築より一一ヶ年を経たる大正一三年に至り物議起る。
 時勢の進運に伴ひ村民の教育熱高まりたるにや、教育の効果を一層大ならしむるには、校舎の完全と其の位置の適否に関することを自覚し、学校位置変更と校舎の改善の必要を唱ふる者多きを加ふるに至る。茲に於て分校を廃し本校舎を移転改築するの議起り、遂に大正一三年八月限り分校を廃止することを村会に於て議決せり。
 然して、本校下部落民と分校下部落民との協議数回を重ね始めて、両校舎を移転改築することに決し、所藪幟立の北を撰定せり。
 大正一三年起工し、大正一三年一二月教室参個、住宅壹個を壹棟とせる一〇二坪五合、校地四〇三坪試作地弐畝歩を構えたる面目一新したる校舎を完成し開校せり。
 昭和六年八月運動場拡張工事完了(二か年計画)三七〇坪となる。
 同七年運動場、南と東に土壁を作る。運動場面積若干減じた。
 同九年住宅を別に壹棟新築し、旧住宅を職員室、裁縫室に改造する。
 同一二年一〇月奉安殿竣工、一二月御真影奉戴する。
 同一三年一一月校舎屋根をセメント瓦に改修する。
 同一六年四月一日勅令第百一八号国民学校令施行に伴い校名を石墨国民学校と改称する。
 同一七年一月校門下坂道を石墨とする。
 同二〇年六月住宅隣ヘ一教室建つぐ。
 同二三年四月一日学制改革により石墨小学校に改称する。
 同二五年三月現在旧校舎(東校舎)落成。教室三、職員室一、工費一二〇万円
 同二五年四月五学級となる。(村費負担により六学級とする。)翌年六学級となる。
 同二七年八月校内放送設備、校庭金網垣完成。
 同二九年一二月給水施設完成、工費二〇万円、出役一〇〇人役。
 同三〇年二月東校舎屋根、杉皮をセメント瓦に改修する。
 同三五年三月ピアノ購入する。
 同三六年六月学校・ハイタカ間の林道完成する。
 同三七年四月伊予鉄バス中谷まで開通する。
 同三八年二月テレビ購入する。
 同三八年一二月教員住宅(二棟、四戸)学校裏に移転する。総工費九〇万円(校下負担三五万円)
 同三九年四月給食室落成、給食開始。物置を取り壌し、物置、宿直室を新築する。
 同三九年一二月西校舎新築。総工費五〇〇万円、内理科室、付属建物(家庭科室)校下負担四〇万円
 同四〇年七月日本ユニセフ協会より放送機を受ける。
 同四一年四月四学級となる。(但しPTA教育後援会より二名雇入れ複式を解消する。)
 同四二年四月三学級となる。(右記により三名雇入れ複式を解消する。)校有林を伐採一二五万円(教育後援会に入れる。)
 同四三年四月五学級となる。(但し村費補助により複式を解消する。)
 同四三年五月図書室床四坪をアピトン張りとする。
 同年七月東校舎土間、渡り廊下をコンクリートに改修する。PTAで校長住宅大修理ならびに全住宅畳替えを行う。
 同四五年四月四学級となるが、村費補助により複式を解消する。
 同年六月資料室防具置場を設置、東校舎土間三坪をアピトン張りとする。また、運動場周囲の花壇、及びはん登棒を設置する。
 「タガク」より水道を布設する。
 同四六年四月五学級となるが、村費補助により復式を解消する。校内テレビ放送設備を完成する。
 同四七年二月校歌を制定する。(作詞原田松利、作曲伊藤 深)
 同年七月宿日直を廃止し、無人化となる。教員住宅前の農地を買収し、花壇とする。九月には東便所周辺土間をコンクリートに改修する。一一月には全教室にストーブを設置、東校舎にシャッターを取付け、体育館を兼ねるように改修する。
 同四八年三月物置を改造し、工作室とする。
 同年四月四学級となるが、村費補助により五学級とする。全教室スチール製机となる。
 同年七月廊下を特別教室(放送・広報・生活・保健)に、教室を図書室に、宿直室を校長室に改造する。
 同四九年一二月テレビアンテナが前組と共同となる。
 同五〇年五月給水施設を完成する。運動場の金網を取替える。一二月テレビを購入し各教室に設置する。
 同五一年一一月創立百周年記念式を挙行する。記念として国旗掲揚台設置、記念誌を発刊する。
 同五二年三学級となる。校内放送設備を買い替える。
 同五三年理科教育振興法の適用を受ける。校舎塗装、登り棒を設置する。
 同五四年二学級となり教員三名となる。車庫・住宅防犯灯・防犯ベルを設置する。
 石墨小学校卒業生の進学先
 本校卒業生が高等科へ行くには杣川尋常高等小学校まで行かねばならないが、遠距離でしかも道路も悪く不便である。そのような状況から大正二年十二月二十日より久万町直瀬尋常高等小学校へ通学するようになった。その間の様子を直瀬小学校の沿革史には次のように記されている。
   大正二年一二月二〇日より篠崎覚一郎校長(註、直瀬尋常高等小学校長)村有志と交渉し、下直瀬尋常小学校を合併、石墨小学校も同様杣川村より通学
 直願尋常高等小学校の卒業生の内石墨小学校出身者数の状況は次の表のとおりである。
 また最近一〇年間の本校卒業生の進学先中学校の状況は次表のとおりである。

石墨小学校学級編成沿革1

石墨小学校学級編成沿革1


石墨小学校学級編成沿革2

石墨小学校学級編成沿革2


直瀬尋常高等小学校卒業生の内、石墨小学校出身者数

直瀬尋常高等小学校卒業生の内、石墨小学校出身者数


石墨小学校卒業生進学先中学校について

石墨小学校卒業生進学先中学校について