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面河村誌

(二) 馬

 道路が開通し、交通が発達するまでの上浮穴郡の人々にとって、馬は、生活物資の輸送農作物の運搬を始め、交通・通信などのあらゆる面で、欠くことのできない重要な存在であった。資料によると、寛保元年(一七四一)ころ、既に久万町だけで一二〇〇頭に近い馬が飼育されていることから、かなり昔から飼われ、人々の生活に大きな役割を果たしていたと思われる。
 馬が、交通や運輸の面で大きな役割を果たしていた時代には、馬を使役する「馬方」又は「駄賃持ち」といわれる職業もあり、かなり多くの人がこれに従事していた。江戸時代から明治初期にかけて、東明神に、馬の飼育頭数が多いのは、この地域に三坂峠での交通や運輸に従事する馬方が多かったためではないかと考えられる。
 明治二十五年、土佐街道(現在の国道三三号線)の開通をはじめとして、大正・昭和と時代が進むにつれて、郡内の各地に道路が次々に開通した。道路が開通すると、物資の輸送には牛車や馬車が使用されるようになった。したがって、従来のものよりも大型の馬が導入され始めた。その反面飼育頭数は減少した。昭和十二年の調査では、この年の本郡の
飼育頭数四八五頭、その内訳は、和種二七頭、雑種四四六頭、洋種一二頭となっている。
 戦後の日本はめざましい経済成長を遂げ、本郡にも各種の農林業機械が入り、林道や農道が整備された。交通運輸機関も、めざましい発展をした。そして長い間、馬が果たしていた役割を、それらが果たすようになり、馬を飼育する価値はなくなった。小田町では三十九年に、柳谷村では昭和四十三年に、馬はまったく姿を消し、昭和五十年に至って、本郡にわずか三〇頭飼育されているにすぎない。大昔から、人々と苦楽をともにしてきた馬はやがて一頭もいなくなるのではないだろうか。

年次別、面河村における馬の飼育状況

年次別、面河村における馬の飼育状況