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面河村誌

(一) 和 牛

 上浮穴郡で牛がいつごろから飼われていたかは明らかでないが、かなり古い時代から農耕や運搬の使役のために飼育されていたものと思われる。これらの牛は、黒毛の黒色和牛と茶色の禍色和牛とである。
 上の表は「久万山手鑑」に記録されている寛保元年(一七四一)ごろの面河村における、牛馬飼育状況である。この時代は馬が主で牛は少なかったようである。
 このころの日本では、牛肉をいっさい食べず、もし牛を殺したり、食べたりすると、たちまち神の怒りにふれると恐れられ、さらに村人からは「のけ者」にされる風習があった。したがって、牛は農耕の使役と「だの肥」といわれる厩肥作りのために飼育されていたのである。
 上の表は、明治初年ころの牛馬の飼育状況であるが、寛保元年ころと同じように、牛を飼っている農家の方が少ない。
 ところが、明治四十年代になると、牛肉を食べる人が増え、それに伴って牛肉の需要が増してきた。農家では、子牛を買って育て、水田の耕作などの作業に使役し、成長したら、よく肥やしてから肉牛として売った。つまり利ざやを得るという目的で牛を飼育するようになったのである。
 上の表は、昭和十二年の本村における牛馬飼育状況である。牛三七二頭、馬六四頭が飼育されている。このころから、十五・六年ころにかけてが、牛を最も多く飼育していた時期と思われる。
 昭和十六年に始まった、第二次世界大戦の激化に伴い、農家は働き手をほとんど戦場へ送り出した。牛の飼育に手が回らなくなったため牛を手放す農家が多くなった。
 昭和二十年に終戦を迎えて、日本の農業は食糧増産の時代に入った。昭和二十五年、政府は三度目の有畜農家の奨励を行った。一方、本郡でも農協が中心となって、牛を購入するための資金貸付制度をつくって牛の飼育を奨励した。このため、昭和三十年には、約三八〇〇頭の牛が本郡で飼育されるようになった。時代の進展は、新しい農業機械を生産するとともに、速効性の高い化学肥料をつくり出した。昭和三十年ころから、これらの農業機械や化学肥料が、本郡へも導入され始めた。昭和三十八年ころには、水田の耕作は耕運機が完全に牛に代わり、厩肥を使用する農家もほとんどなくなって、牛の飼育目的は、肉用へと変わった。

寛保元年(1741)ごろの牛馬飼育状況

寛保元年(1741)ごろの牛馬飼育状況


明治初年ごろの牛馬頭数

明治初年ごろの牛馬頭数


昭和12年牛馬飼育頭数

昭和12年牛馬飼育頭数


面河村における和牛飼育状況の推移

面河村における和牛飼育状況の推移