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面河村誌

(二) 戦後の養蚕

 県の統計から実収繭をみると、昭和五年には一一五一万二五〇〇キロとなっている。それが昭和二十二年になると六〇万〇〇一〇キロと低下しており、第二次世界大戦による打撃で落ち込んだことは、前述のとおりである。
 本郡においても同じことがいえる。食糧事情、生糸需要の好転とともに養蚕の有利性が再確認された。このため桑苗植付による増反老朽桑園の改植、さらに反当能率の向上により再び養蚕業が盛んになってきた。県においても、昭和二十三年より蚕糸復興五か年計画、また、二十七年より繭増産緊急三か年計画、つづいて二十八年より前期計画を織り込み、二次繭増産計画を立て、桑園対策をはじめ稚蚕協同飼育所の普及、優良原蚕種の育成などに力を入れてきた。
 本郡においても、戦前から養蚕の燈を絶やさなかった人も少なくない。資料によると、昭和三十四年ころまでは、小田町がほとんど蚕家を占めているが、三十一年に柳谷村で一戸が始め、三十三年に仕七川で一戸、三十七年に面河村で九戸が始めるに至り全郡が養蚕に関係するようになった。収繭量も年ごとに増えてきた。