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面河村誌

四 養 蚕

 日本における養蚕業の歴史は古く有史以前にさかのぼり、それ以来ずっと続けられてきたといわれている。特に養蚕が、農業経営の上でたいせつになってきたのは、明治の初期から中期にかけてである。それは、明治維新による作目制限の撤廃、土地私有制度の確立などの農業経営に関する基礎条件の確立である。また、海外貿易の発展、農家の換金作物への転換の必要が、その発展をうながす動機となった。他の作物に比べて、特に養蚕が発展したのは、生糸の海外需要の増大があり、また、その生産が全国どこでも可能であったからである。その発展は、第一次世界大戦の好況の波に乗ってさらに大きく増え、昭和五年には養蚕農家数は全国で二二〇万戸に達し、輸出の第一位となった。
 だが、昭和五年をピークとして、農業恐慌と人造繊維の進出により養蚕業がふるわなくなり、繭価が低落し、大正八年春の好況時には、三・七五キロが二円台にあったものが、昭和五年晩秋期には二円台を割ることになってしまった。その後少しは回復したが、同九年には再び二円台になった。政府はその対策として、糸価安定融資補償法、続いて糸価安定施設法をもって糸価暴落の防止に努めると同時に、桑園の整理改植の奨励に努めた。しかし、第二次世界大戦による海外市場の空白と国内における食糧不足の影響で養蚕は下火となってしまった。
 戦後、生糸の輸出は再び可能となったが、繭の生産量は、最盛期における一三・四%にすぎない状態であった。昭和二十年以降は徐々に回復してきているが、昭和二十九年ころは昭和二十二年の約二倍とまだまだ低い。その後は、農業に対する考え方の変化や海外市場の拡大、農機具などの開発により生産量を増し、現在に至っている。