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面河村誌

(二) 工芸作物 ①

 1 みつまた
 みつまたは、値え付け後三年目から生育のよいものを切り取る。収穫時期は、秋の落葉から翌年の萌芽までの間で、切り取られたみつまたを直径一メートルぐらいの大きさに束ね、大きな釜の上に立て、こがで伏せて蒸す。二時間程度で取り出して皮をはぐ。これを生皮といい、乾燥したものが黒皮である。黒皮の表皮を削り取ったものが白皮である。みつまたは、こうぞとともに我が国独特の製紙原料で、その繊維はこうぞに比べて短いが、繊細で光沢があり、局納みつまたとしての造幣局用と、一般需要のものとに分けられている。現在は植林熱の高まりにより植栽は漸次減ってきている。
 2 たばこ
 上浮穴郡における葉たばこの耕作の歴史は極めて浅いが、昭和二十五年から二十八年の朝鮮動乱の影響を受けて、商工業の著しい発展を遂げ、日本の高度成長の礎を築いた。第二次産業の著しい発展に対して、農業は余り伸展せず、米麦中心から脱皮するのは容易なことではなかった。したがって、上浮穴郡における農家の収入は少なく、他産業への転換、都市への人口流出が、年を追って増加していった。これに拍車をかけたのが、食糧の大幅な輸入であったことも見逃せない。
 こんな農家の窮状の打開策として、換金作物の栽培が考えられた。そして、葉たばこの耕作が研究され、昭和二十六年になって初めて小田町で試作されたのである。翌二十七年からは、久万町の畑野川と、小田で本格的に栽培が始まった。資料によると、本村における栽培は昭和三十八年ころ始まったようである。
 やがて、気候・風土・土壌などが葉たばこの耕作に適していること、農閑期に当たる夏季の仕事であるため、比較的労働力が確保しやすいこと、現金収入の少ない農家にとって比較的よい換金作物であることなどがわかり、三年後の三十年には耕作面積は一五倍にもなっている。また、生産量は一八倍にもふくれ上がっている。特に、小田町の葉たばこの耕作面積・生産量はともに顕著な伸びを示してきた。
 郡全体の耕作面積は、昭和四十三年が最も広く、生産量は四十四年がピークになっているが、本村では四十二年が、耕作面積、生産量ともピークになっている。それ以降は、耕作面積、生産量ともに減少している。その理由として考えられることは、農山村の過疎化、つまり、耕作人数の減少である。
 本村はもとより、上浮穴郡における葉たばこの耕作は、経営規模の大型化にしても、機械化などによる生産性の向上にしても、余り望めないだけに、衰微していく傾向にあるといえるかもしれない。しかし、愛媛新聞社が調査した愛媛県内における葉たばこの耕作実績をみると、喜多郡に次いで上浮穴郡が第二位を占めていることがわかる。
 葉たばこの耕作の歴史の浅い上浮穴郡が、県下で第二位の実績を示すに至った伸びの速さに驚かずにはいられない。
 3 茶
 上浮穴には茶が自生しており、その芽を摘んで、釜でほうじ、手でもんだり足で踏んだりして、天日で干すという方法での製茶は古来からあった。
 面河の茶が本格的になるのは、大正時代に入ってからであり、村長重見丈太郎の貢献によるところが大きい。彼は、当時郡内で最も進んでいた藤社茶から堀川伊助を招き、焙炉による製茶を始めた。同じく日野浦からきて面河に住んでいた猪野房太郎などは、全国品評会で三位に入賞するなど優れた技術を身につけた。重見丈太郎は、大正十三年ころには動力(水力)製茶機を導入、石川春吉、中川又三郎を静岡へ派遣し製茶法を学ばさせている。そうして、この当時、一番茶(生茶)だけで六〇〇〇貫(二二五〇〇キロ)を製茶するまでになっている。でき上がった茶は、一三貫(四八・七五キロ)入りの茶箱に目張りをして詰め、神戸まで送り、輸出をしていた。しかし、最盛期は昭和初年で、それ以後は、不景気と戦争により、輸出はとだえ、食糧増産体制に切り替えられてさびれていった。
 戦後面河茶の復活は、重見丈太郎の子によって進められた。面河農協組合長であった同氏は、昭和二十八年、八木式製茶機を導入、それまで高知方面へ生茶として販売していたものを加工して出すように切り替えた。ちなみにこの年の生産量は一六〇〇キロである。さらに、昭和三十年には、半年間、静岡へ研修にいかせるとともに、本格的な園茶栽培法をスライドに収め、面河に茶園を作っていこうと考えた。
 この構想に積極的に協力しようとする者も出ており、持ちかえったスライドを六、七軒のところへ持って回り、面河に茶園をつくることの意義や利点、展望を説いて回った。「いもをつくらんといかんけんいやじゃ。」という人たちを説得するのは容易なことではなかった。他人の十年生の山と、自分の二十年生の山とを交換分合したり、測量・伐木をしたりして、面河村本組に一ヘクタールの茶園ができることになった。
 翌年には、静岡・高知から苗木を取り寄せて植えたが、これに制度事業をとりつけるのに貢献した村議会議員もあった。彼らは、このあとも、さし穂で苗木をつくったり、購入したりして、面河に本格的茶園をつくる努力を続けている。
 こうして、しだいに茶園は増え、昭和四十五年には、オートメーションによる製茶機を備えた工場を新設、増産体制に入った。昭和五十年には、茶園面積二〇ヘクタール、生産量(生茶)八七トン、生産額一六五三万円をあげるまでになっている。
 「面河の茶は品質的には日本一といってよい。しかし、生産期が早くても五、六月というように市場競争において劣ることと零細経営で、土地の生産性が低く、したがって、所得が少ないことが大きな問題である。そこで、農家自身の経営感覚を変え、経営構造を改善するとともに、栽培技術(特に肥培管理)製茶技術の改善に取り組み、生産者から消費者に直結するような市場ルートを開拓していきたい。先進地静岡が一〇アール当たり、一〇〇万円の収入をあげているのに、面河のそれが二〇万円では、品質がいいだけに残念である。当面一〇アール当たり四〇万円で目標に取り組んでみたい。」と彼らは語っている。

みつまたの作付面積と生産量

みつまたの作付面積と生産量


みつまたの作付面積

みつまたの作付面積


みつまたの生産高

みつまたの生産高


年次別葉たばこ耕作実績表

年次別葉たばこ耕作実績表


年次別葉たばこ耕作面積

年次別葉たばこ耕作面積


年次別葉たばこ生産量

年次別葉たばこ生産量


昭和50年町村別葉たばこ耕作面積

昭和50年町村別葉たばこ耕作面積


年次別茶の栽培面積と生産量

年次別茶の栽培面積と生産量


年次別茶の栽培面積

年次別茶の栽培面積


年次別生茶葉生産量

年次別生茶葉生産量